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【こういうの似合わないと思ってたのに】 比呂美のバイト その12 麦端神社の鳥居をくぐった女子高生が、参道に居た巫女に手を振った。 「お、居た居た。比呂美ィ~」 小走りに近寄ってきたのは、朋与だ。 その後ろにはさらに二人。三代吉と愛子。こちらは肩を並べ、ゆっくりと歩 いてくる。 参道の上、袴姿で雪かきをしていた比呂美が振り返る。昨晩少しだけ降った 雪が、境内を白く染めていた。 「朋与」 親友の顔を見て、比呂美の顔が少しだけほころぶ。巫女装束を身にまとう姿 を知り合いに見られるのは、ちょっと気恥ずかしかった。 「ほんとにやってたんだ、巫女さんのコスプレ」 朋与がおどけて言った。 「コスプレじゃないったら」 「でも、さすがバスケ部のエース。雪かきする姿が決まってる」 「掃除にバスケは関係ないでしょ」 笑って、比呂美は話しながら雪かきを再開する。 平日の午後。来客などはほとんどないから、度を越えなければ立ち話の黙認 はされるだろう。それでもずっとやり続けるというわけにはいかない。 「いや~、巫女さんってスタイルが良いとやっぱりいいよねー。あんたを見に お客さん増えるかも」 「ないない」 朋与はいつになくはしゃいでいた。 友達のコスプレ(?)姿を見て、気分が盛り上がってしまっているらしい。 それが比呂美には少しおかしい。 「でもさ、これぐらい巫女さんのカッコが似合うコって、実際珍しいよ。はや りのオタクとかカメラ小僧なんかが来るかもよ?」 両手の人さし指と親指でフレームを作って、覗き込んで来る。カシャッカシ ャッと口で言って、比呂美をからかった。 「それはちょっとイヤかも…」 比呂美は苦笑した。 三代吉と愛子が追いついてきた。 「比呂美ちゃん、ホント似合う~」 愛子もやはり目を輝かせている。さすがにこう褒められるとむずかゆく感じ てしまう比呂美だった。 「どーも。眞一郎は?」 三代吉は、まずそれを聞いてきた。 比呂美が境内の隅を指さして答える。眞一郎はより面倒な所で雪と格闘して いた。力仕事・雑用要員だけのことはある。 三代吉と愛子は礼を言い、背中を向けてそちらに向かっていった。 (いいな…) 隣同士で歩くその姿が、比呂美にはとても好ましく思えた。眞一郎にもう少 しだけ積極性があれば良いのだが、オクテな彼は、なかなかそのあたりが面倒 なのだった。 「お仕事ごくろー、青少年」 懸命にシャベルで雪かきをする眞一郎の後ろ姿に、三代吉が声をかけた。 眞一郎が振り返る。 「三代吉、愛ちゃん」 「お疲れさま。ほんとに働いてたんだ。こういうの似合わないと思ってたのに」 愛子がねぎらい半分、冷やかし半分の声をかけた。 眞一郎はちょっとテレて、またシャベルを雪に突き刺す。 「しっかしお前、よりによってよくここで働く気になったな。麦端祭りの舞台 で踊った場所じゃねーか。花形が雑用かよ」 三代吉は呆れたように言ってくる。 「おかげで採用してもらえたんだから、文句は言わないよ」 笑う眞一郎だった。実際の所、自分が花形をやってここで踊った事、実家の 奉納等の関係がなければ、とても採用はされていない。 「それに俺は、比呂美のおまけだ」 「あー、なんかわかる。比呂美ちゃんが、一緒に雇ってくれって言ったんじゃ ない?」 愛子が面白そうに言った。 「そんな感じ。けっこういい加減なもんだよ、この神社」 なにせバイトの募集があったのは女性の巫女だけで、男性バイトの募集はな かったのだから。比呂美の容姿と仲上の名前が何より効いただけである。 「なんだ、縁故採用の上におまけかよ」 「悪かったな」 だが眞一郎は、言葉で言うほど嫌々仕事をやっているようではなさそうだっ た。それなりに割り切って体を動かしている。働く者としての芯が、僅かなが らも出てきていた。 (ちょっと前まで甘いボンボンだったのにねぇ…) 愛子は、爪の先ほどの痛みと共に、眞一郎の成長を喜んでいた。ごく僅かな 痛みが消えるまでには、あと少しだけかかる。だが、それはいずれ消える。消 してみせる。 その自信はあった。なぜなら、横にもっと大事にすると決めた男がいるから。 いじり、いじられながら、3人はそれぞれに笑顔を浮かべていた。 「ナンパとかされたりするんじゃない? あんたの旦那、頼りないからねえ。 ちゃんと守ってくれるかなー」 朋与が冷やかし半分で心配の言葉をかけた。 「旦那って、そんなのじゃ…」 反射的に否定してしまう比呂美である。今までの癖はなかなか消えないよう だった。 現実の話としては、この一週間ほどのバイトで比呂美は2度ほどナンパめい た目にあい、職員のフォローが入っていた。眞一郎は間が悪く、そこに居合わ せてはいなかった。 心配させるのがイヤで、眞一郎にその話はしていない。 それと…、眞一郎がそういう事に対応できるかどうか、少し自信もなかった。 基本的に、彼は争いに向かないのだ。 「あら、違うの? 仲上君かわいそ~」 朋与は意地悪モードで、ニヤっとした笑いを浮かべた。 「違わない…かも」 僅かに頬を染め、比呂美は照れ隠しで参道の雪に当たる。 「お、やっと素直になった。前はいつも、そんなのじゃないって否定してたも んね」 比呂美が眞一郎との交際を朋与に対して認めたのは、実はこれが初だった。 「朋与、いじめっこみたい」 「いえいえ、彼氏がいなくてひがんでるだけです。…ところで比呂美さん。よ くバイトに受かったね」 朋与の意地悪モードは終わらない。比呂美に『さん』付けで呼びかける時、 朋与は冷やかしたり、からかったりしている。 でも、本当は嬉しくて仕方がないのだ。やっと比呂美が本当の気持ちを自分 に教えてくれたから。そして、それは比呂美自身ももわかっていた。 「うん、たぶん応募が早かったせいだと思う」 比呂美は真面目に答えた。本当は思いっきり縁故頼りなのだが、それは言う 必要のない事だった。 「そういう意味じゃなくてね…」 「ん?」 「巫女さんって処女じゃないとなれないんでしょ? それなのによく採用して くれたねえ」 朋与は比呂美専用の笑顔を見せた。こんなニヤニヤとした笑いは、本当に比 呂美にしか見せられない。男が見たら目の上に斜線でも現れそうな、ある意味 でスペシャルな笑顔だった。 「えっ、あ、私…」 比呂美は思わず雪かきの器具を取り落とし、顔を真っ赤にして、口元を手で 覆った。 「比呂美、可愛い~」 朋与はスペシャルな笑顔のまま、次にどうやって比呂美をいじるかを考えて いた。 本堂を歩く別の巫女を横目で捉え、三代吉が言った。 「しかしまあ、あっちも巫女さん。こっちも巫女さん。いい職場だねえ…」 しみじみと、といった風情である。 「お前そんな趣味あったのか」 呆れたように眞一郎が突っ込む。 「日本人だからな。日本人なら巫女さんに惹かれるのは当然。そこの巫女さん がお経読んでる所、是非見てみたいぜ」 「…お寺と神社の区別、ついてないだろ」 「そんなのどっちでもいいんだよ。だれだっけ、『可愛いは正義』って名言残 した奴がいただろ」 「なんだそれ、ほんとに名言か?」 「お前は赤い袴を履かないのかよ。なんだよその地味な白い袴」 「俺が女装してどうするんだよ!」 もうメチャクチャである。 さすがに愛子が吹き出し、おなかを抱えて笑い出した。 「しっかし湯浅さん似合ってるよな~」 三代吉の目は、雪かきをしながら朋与と話す、比呂美に向いた。 「ああ…」 眞一郎も巫女装束の比呂美を見ていた。目を細めている。それは恋する者の 目だった。 眞一郎の仕事は、バイト仲間である巫女達に比べて、はるかにハードで地味 である。下働きの下働き、という役目だからだ。 それでも彼がそれなりに満足して仕事ができているのは、初めて知る労働の 喜び、というだけではなかった。巫女の姿で楚々として仕事をする比呂美を、 間近で毎日見る事ができるからだったのだ。 「でもよー、ここの巫女さんのうち、何人がちゃんと処女なんだか」 「おい…」 たしなめつつ、眞一郎はちょっと赤面した。巫女姿の比呂美を眺めている時 にそんな事を言われれば、眞一郎としては無理もなかった。 (比呂美を見ながらそんな事言うなよ!) 本当はそう突っ込みたかったが、さすがに無理である。 「なんだその反応。さてはお前らやっぱり…」 言いかけた所で、三代吉の体が前に吹っ飛び、雪だまりに、頭から突っ込ん だ。 「わっ!」 「三代吉!?」 男二人の驚いた声が上がる。 犯人は愛子だった。振り上げた足を地面に戻す。どうやら三代吉を後ろから 蹴り飛ばしたようだ。 「うわ、愛子」 「ちょっとそこになおれ! そのスケベ根性を叩きなおしてやる!」 湯気が立つような、怒りともなんとも見当のつかない、でも凄い迫力の愛子 が、じりじりと三代吉に迫る。 眞一郎はさりげなく数歩下がった。こういうケンカは犬も食わない。巻き込 まれるとひどい目にあう。 「愛子、愛ちゃん、これはお約束の突っ込みってやつで…」 三代吉は尻をついたまま、慌てて手を振る。 「うるさい、この変態! 女の子をそんな目で見るなんて、絶対許さないから ね!」 愛子の剣幕はすごい。眞一郎はまた2歩下がる。 「でもよ。高校生なら、付き合ってりゃ自然に…」 慌てて言い訳し、三代吉はさらに墓穴を掘る。 「ふーん、そうなんだ。あんたもそんな目であたしを見てたんだ」 「見てないってば!」 三代吉は掘った墓穴に飛び込んだようである。 「あたしに魅力がないっていうの!?」 逆上する愛子。 「そんなことないって、ちゃんとそういう目でも見てるから!」 三代吉は墓穴の中でガソリンをかぶったようだ…。 「ほら、やっぱりそうじゃない。このドスケベ!」 悲鳴が上がる。 愛子の言っている事は支離滅裂、もうメチャクチャであったが、次々に自爆 を繰り返した三代吉にも問題があった…。 「眞一郎、助けてくれ」 手近な所から雪を拾って次々に投げつけてくる愛子から逃げ、三代吉は眞一 郎の後ろに隠れる。 眞一郎は愛子の目を見て…三代吉の前から体を退く。今の愛ちゃんにはかな わない。逆らわない方が無難である。 「知るか」 愛子はついに三代吉の襟首を掴んだ。 「じゃあね、眞一郎! ほら三代吉、きりきり歩け!」 そのまま、三代吉を引きずり、鳥居の外、神社の外に二人は消えていった。 (良いなぁ…) 自分達もあれぐらい気軽なやり取りができるようになりたいと願う眞一郎だ った。 神社を出ると、三代吉の襟首をひっつかんでいた手は外され、凄かった愛子 の剣幕は瞬時に消えた。そのまま少し気落ちしたような様子で、彼女はとぼと ぼと無言で歩いている。 「おい…?」 今まで振り回されていた三代吉は、この激変についていけていない。おずお ずと声をかける。 「比呂美ちゃん、綺麗だったね…」 愛子はつぶやいた。 「まあな」 未だ掴みきれていない三代吉は、気のない返事で探るしかなかった。 「ごめんね、三代吉…」 どうも、暴れた事を謝っているようだ。あまりに塩らしくなりすぎた愛子に、 驚く。さっきの大暴れは、もしかして演技か?と舌を巻いていた。 「気にすんなよ。ああいう愛ちゃんもけっこう楽しかったぜ」 「私、魅力ないよね…」 どうやら落ち込んでいるらしい。 (ま、あれじゃしょうがないか) 比呂美の巫女姿は、清純な色気が身を包んでいるようで、周りの空気さえ静 謐に変えてしまう。あまりの魅力に、愛子一筋な三代吉でさえ目をそらすのが 困難だったほどだ。祭りの振り袖も破壊的に似合っていたが、巫女姿もあれほ どとは…。 愛子は同じ女として無心ではいられなかったのだろう。女として生まれた以 上、美への憧れは捨てきる事ができないものだ。 (でもあんなのと比較する方がおかしいんだぜ?) 愛子は可愛い。どこに出しても、誰に見せても自慢できるほど可愛いと、三 代吉は思っている。 それでも"別格"や"例外"というものがある。そんなモノと比較するのは、無 意味なだけじゃなく有害だ。割り切って見て楽しむだけにして、放っておいた ほうが良いのだ。それを教えてやりたいぐらいだった。 「そんな事ねーよ。愛ちゃんは可愛い。ファッションセンスもいいしな。俺が 保証する」 三代吉はあえて演技がかった態度で言った。 「三代吉に保証されても…」 不満っぽく言うが、愛子は少しだけ気分を直しているようだ。 「なあ、手、つないでいいか?」 愛子は三代吉の顔を見上げ、そして視線を落とし、顔を赤くして言った。 「いちいち聞かないでよ、恥ずかしいなあ」 照れる愛子の姿を、三代吉は心から愛おしく思い、その手を取った。 「なあ、ちょっとショッピングセンター寄ってかないか? 愛子に似合う服、 探そうぜ。んで、今度それ着てデート行こうデート」 「あんた金欠なくせに、何いい加減な事言ってんのよ」 文句を言いながら、愛子の機嫌は戻っていた。三代吉の配慮でちょっと涙ぐ みそうになる。それを振り払うように、彼女は元気よく言った。 「ほら、さっさと店に行くよ!」 二人は本当に良いカップルなのだった。 年末年始の神社のバイトで巫女さん、が正解でした。 時期は絶対に、何があろうと12月。そう言った理由がこれでした。 実はこのバイトシリーズ、「比呂美を巫女さんにしてみたい!」だけで始めた ものです。 どうやったら比呂美を巫女さんにできるか、頭をひねった揚げ句に、4番のバ イク代を口実にすればバイトで巫女さんにできる! という…。それだけ(笑) だから最初は過去の清算とか、ママンとの和解とか、どうでも良かったんです。 実際には過去の清算がメインになり、巫女話の方がどうでも良くなってしまい ましたが。 まあ、朋与と三代吉が同じツッコミをしていますが、それもリズム云々の前に どーしても書きたかったので許してください。筆者はエロいので。 以下、補足。 神社のバイトのくせに毎日だったり、夜の8時までやっていたりするのは 比呂美の容姿や物腰が気に入られ、バイト(助勤)の中でのリーダー格として 猛烈に仕込まれているせいです。 だから通常の仕事の後、8時まで巫女としての勉強をしています。 立ち居振る舞いや、案内するため色々のレッスンですね。 比呂美は元々経理ができるので、物品販売とかはあっさりクリアしてしまい他 のバイト巫女のフォロー・まとめ役にされたわけです。 眞一郎は雑務。身分的には(出仕前)という事になるはず。 この時期の初詣を控えた富山の神社なら、雪かきを中心に、荷物運び等、男手 を使う仕事は、探せば色々あるでしょう。でもやっぱり、比呂美のおまけ。 邪魔にはならんし、便利に使えるけど、居なきゃいけないわけでもなく(笑) 残念だったのは、12月末で雪がある事でした。 ほうき持った巫女さん比呂美がやりたかったのになー。 比呂美のバイト その12…の2 『今年は麦端神社にすごく綺麗な巫女がいる』 ウワサが噂を呼び、年末年始の麦端神社は、例年と比べて相当に多い初詣客 でごった返す事になった。 年末年始の厳しさは、二人にとって想像以上で、労働時間は長く、休み時間 は短かった。 本人達は知らぬ事だが、比呂美は客寄せパンダ、眞一郎は寄った客の後始末 として意識的に配置されていたのである。結果として二人は相当なハードワー クをこなす事になった。 仲上の両親は、元旦の朝一番に神社に初詣に出かけた。 神社への挨拶もそこそこに、二人の子供の働いている姿を探して回る。 比呂美はすぐに発見できた。それはもう、捜す必要がないほどよく目立った からである。拝殿の表側、目立つ所に配置され、参拝者が賽銭を入れようと、 参拝しようとすると、必ず比呂美が目に入る。彼女はそこで動き回っていた。 「なんだあれは…」 ヒロシが呆れたようにつぶやいた。 「比呂美ちゃん、美人ですもの」 理恵子がくすっと笑う。 「だからって、なんでバイトの癖に千早まで着てるんだ」 千早とは普通の袴と白衣の上に羽織る、刺繍の入った着物である。神社によ り異るが、この神社では初詣時期であろうと、バイトの巫女に千早を着せる事 はないはずなのに。 「でも、良く似合ってますよ」 理恵子は本当に嬉しそうだ。手持ちのカメラで何枚も比呂美の写真を撮って いる。本当は撮影許可をとるべきだろうが、そこは気付かないフリをしている。 こういう時、女性は強い。 (変わったな…) ヒロシは、何よりも理恵子のこの変化が嬉しかった。理恵子がこれほど喜ぶ のなら、写真館に撮影を頼んでも良いかもしれないと考えはじめてもいた。神 社に衣装を借りて、家族で写真を残しておくのもいいだろう。 「ところで、眞一郎は?」 そこで気付く。息子の姿をまだ見ていない。 「あら? 忘れてました。どこでしょう」 (おい!) ヒロシは内心、突っ込む。あれだけ溺愛していたにしては悲しい扱いだった。 だが、理恵子にとって、もう息子は自分の手を離れている。比呂美に『引き 渡した』後なのだ。下手に干渉すると比呂美の領分を侵してしまう。 もしかして、息子の事は忘れているフリをしているだけかもしれない。そう ヒロシは思った。色々と欠点はあるが、本当に…、本当に良くできた妻なのだ。 理恵子は。 捜してみると、眞一郎は境内の端の方を走り回っていた。ゴミを集めたり、 ダンボールを運んだり、せっせと体を動かしている。その顔は引き締まり、真 剣そのものだった。 (ほう…) これほど真剣に『すべき事』に取り組む眞一郎は、見た事がない。これもま た良い変化だった。 眞一郎の仕事は決して派手でも、カッコ良くもない。そういう仕事を真剣に 手を抜かずする姿勢こそが、何よりも大事なのだ。 ヒロシはそんな息子の姿を、目を細めて見続けていた。 「眞ちゃん、良いわね」 いつのまにか隣に来ていた理恵子が、言った。 「ああ」 ヒロシは満足して答える。 「比呂美ちゃんに任せたのが良かったのね」 理恵子は別のところで満足を覚えているようだった。もしかしたら若干の寂 しさを感じ、自分に言い聞かせているのかもしれない。 だが、もしそうだとしても、理恵子の顔や声に、後悔は微塵もなかった。 「そうだな。…ん?」 言いかけて、口をつぐむ。 眞一郎は手を止め、遠くで働いている比呂美の姿を目で追っている。仕事中 だというのに、比呂美に見とれていた。 「まだまだだな…」 「そうですね…」 ヒロシと理恵子は、そろって溜息をついた。 初詣客の中に、背の高い兄と、少し背の低い妹の二人組がいた。妹は松葉杖 をつき、兄はそれを適度に助けながら、ゆっくり歩いている。 拝殿に賽銭を入れるために近づこうとして、妹――石動乃絵は、そこに居た 巫女に気付き、その名を口にした。 「湯浅比呂美…」 兄はその言葉を聞き、目を向ける。確かに比呂美が巫女の姿で働いていた。 「お兄ちゃん、私、帰る…」 乃絵は賽銭を入れないまま、拝殿に背を向けてしまう。彼女の気持ちが整理 されるまでには、今少しの時間が必要なようだった。 少し遅れて兄が続く。 「こんな所で…?」 石動純はつぶやき、もう一度振り返って、比呂美の姿を目に焼き付けた。 ◇ 元旦から数日が経ち、明後日から新学期という日。 比呂美と眞一郎のバイトは、この日で一応終わりとなる。あとは成人の日と その前日にヘルプに来るだけだ。 麦端神社には朋与がまた遊びに来ていた。客が少なければ、そしてあまりう るさくしなければ、という事で、働きながら比呂美は相手をしていた。 「――でね、比呂美」 その時、比呂美の表情が若干強ばり、自分の後ろの空間に視線を向けた事に、 朋与は気付いた。 振り返ってみると、そこには蛍川の4番が立っていた。 「あんた…」 何かを言いかけた朋与を、4番が遮った。 「席を外してくれないか。俺は湯浅比呂美に用があるんだ」 朋与は比呂美に振り返った。 「ごめん、朋与。ちょっと外して」 自分が居ても何もできない。少し後ずさり、朋与は駆け出した。 (まずい、仲上君を探さなきゃ…) 朋与に連れられ、眞一郎が現場にかけつけた時、比呂美と4番は何かを話し 込んでいる様子だった。 そして眞一郎は、目にした。比呂美が4番と話しながら遠くの空を見て 「かなわないな…」とつぶやいたシーンを。
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「ただいま」 仲上眞一郎は玄関の鍵を開け家人に声をかけたが返事はない。 この時間父は仕事で家を空けており、居候の湯浅比呂美も部活のため帰宅部の眞一郎より遅く帰ってくるのが常であった。 だが今日は母もいないらしい。 買い物が長引いているのか、あるいは町内会の会合にでも出ているのか。 それは眞一郎にとってどうでもよいことだった。 思春期を迎え母親の過度な愛情が煩わしく感じられている彼にしてみれば、むしろ好都合だ。 「ふぅ―――」 小さく息を吐く。 季節は春だというのに今日はやけに暑い。 ふと、シャワーでも浴びようかと思い立った。 誰もいない脱衣所に入る。 ワイシャツを脱ぎ捨てそれをカゴの中に入れようとして、眞一郎の動きが止まった。 脱衣カゴの中には家族の昨日の洗濯物が入っていた。 昨日最後に入浴したのは湯浅比呂美だった。 居候の身の少女の入浴はいつも一番後で、他の人の垢の浮いた湯船に浸かっていた。 別に強要されたわけではないが、それはいつの間にか決められていた暗黙のルールであった。 そのため今一番上にあるのは比呂美が昨晩脱ぎ捨てた衣類であった。 「ごくっ・・・」 喉が鳴った。 その誘惑に勝てる者が果たしているであろうか? 眞一郎は小さく呻くとすぐに目当てのものを探り出した。 白地に青のストライプの入った、同級生の美少女の下着である。 それは童貞少年の理性をたやすく焼き切ったのだった。 ベルトを外すのももどかしい。 眞一郎はズボンのチャックを降ろして、そこから既にこれ以上ないほどにいきり勃っていた己の性器を取り出した。 それから両手で比呂美の下着を広げてみる。 するとクロッチのところにべっとりと汚れがこべり付いているのが見て取れた。 その汚れはやや黒ずんだ黄色で、クロッチの白地によく映えていた。 顔を近づけて臭いを嗅いでみる。 鼻に、ツーンと来る刺激臭は薄いアンモニアの臭いなのであろうか。 いや、それだけではない。 間近でよくみると明らかに尿とは違う排泄物によって付いたであろう茶色い染みもあった。 (信じられない・・・コレ、これ、あの湯浅比呂美の・・・・・・) いくら容姿端麗、運動神経抜群の優等生といえども人間である。 決して女神ではない。 食事だって取るし排泄だってするであろう。 それくらい頭では理解出来ているが、その臭いはただただ生々しかった。 再び鼻から息を吸い込む。 (あんなにキレイな顔してるのに、こんなにクサイのしてるのか・・・!) それはある種の感動ですらあった。 そこで眞一郎はその臭いが尿と便以外にも構成要素を持っていることに気がついた。 うっすらと匂い立つ男を悦ばせる匂い。 湯浅比呂美の汗のにおいであった。 この連日の暑さに加えて比呂美はバスケ部である。 通気性のよくないブルマの中はサウナ状態で、少女が滝のように分泌した健康的な汗をその下着は余すことなく吸い込んでいたのだった。 もはや臭いを嗅ぐだけでは満足の出来ない眞一郎は汚れたクロッチに舌を這わせその味を確かめてみる。 わずかに舌先に感じるザラザラとした感触と苦味。 その味をオカズに少年は夢中で右手を動かしていた。 「ただいま」 玄関を開けて湯浅比呂美は家人に声をかけたが返事はない。 今日は所属するバスケ部がミーティングだけだったのでいつもより大分早く帰って来たのだが、帰宅部の仲上眞一郎は自分よりも先に帰ってきているはずである。 鍵も開いているし靴もある。 「眞一郎くん・・・?」 風呂場のほうで人の気配がした。 不審に思った比呂美は風呂場に赴き、その扉を開けた。 その時の驚きはどちらが上であったか。 目の前の眞一郎は今まさに射精する瞬間であった。 口元に布切れが当てられている。 その縞模様からそれが自分の使用済みかつ洗濯前の下着であると聡い少女はすぐに気が付いてしまった。 眞一郎は驚きのあまり眼を大きく見開きながら、よほど動転していたのか突然の闖入者のほうへと向き直ってしまったのであった。 その瞬間射精が始まった。 結果、鈴口から発射された大量の白濁粘液は立ち尽くす比呂美に降り注いだのであった。 深く、重い沈黙が場を支配する。 比呂美は男性経験こそないが、今の眞一郎の行為の意味がわかるくらいには大人であった。 その沈黙を破ったのは眞一郎の方であった。 「あ、あのっ、その、ゴメン・・・!!」 やっとの思いでそれだけ言うと眞一郎は比呂美の脇を通り過ぎ、脱衣所を後にする。 後には制服を精液で汚され呆然と立ち尽くす比呂美が残された。 「・・・・・・眞一郎くん、あんなことしてたんだ」 年頃の少年が皆自慰行為に耽るという事は知っていた。 だから眞一郎もまたそういうことをしているのではないかとは思っていた。 だがそれはあくまで本やビデオなどを用いてのことであり、まさか自分の下着を使ってなど慮外千万であった。 しかし自分がそういった対象になったことをおぞましく思う反面、誇らしくもあった。 それは眞一郎が自分を異性として魅力的に感じているが故の行為であるのだから。 そう思うと比呂美の背筋に熱い震えが走った。 色白の頬が朱に染まる。 制服に飛ばされたばかりで生暖かい精液を左手の人差し指で拭い、その匂いを嗅いでみる。 「・・・・・・・すぅ――――」 よく栗の花の匂いに例えられるが、そもそもそんな匂いを知らない比呂美にはそんな例えは思いつかない。 「なんか、不思議な匂い・・・」 青臭いような、生臭いような、少なくてもいい匂いではないであろう しかしそれは少女の子宮を疼かせる匂いであった。 ――――――――ドクン―――――――― 下腹部が熱く脈打った。 その疼きを抑えるために、本能の赴くままに比呂美の右手は下腹部へと伸びていくのだった。 少女の指が下着の上から肉の割れ目をなぞった。 「んっ・・・」 それだけで思わず声が漏れる。 比呂美にとってそれは未知の感覚だったのである。 多感な時期に両親を失い、その後複雑な家庭環境で強いストレスに晒されていた彼女は、そういった行為をするだけの心理的余裕を失っていたのだった。 鼻の穴を広げ精液の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、指の上下運動を激しくしていく。 (眞一郎くんも、さっきまで、ここで、こんな風に、してたのかな・・・?) 早くも股間からくちゅくちゅと音が立ち始める。 (私の下着の、臭い嗅いで・・・全部知られ、ちゃったのかな、汚いのとか・・・) そう考えると羞恥に全身が熱くなる。 (嫌われ、ないかな、眞一郎くんに・・・) ぴったりと閉じていた秘裂ははしたなく綻び始め、肉穴は開閉を繰り返し、そこは生まれて初めて男を受け入れることが出来る状態になりつつある。 (ああ、でも、こんなに精液、出してたって、ことは・・・) 右手はそのままに左手で再び制服にかけられた精液を拭いとる。 (興奮、してくれてたの、かしら・・・?) もしそうならそれは比呂美にとって恥ずかしくも悦ばしいことであった。 自分の最も汚いモノまで愛されているというのであるから。 若い雄が比呂美の制服に飛ばした精液の量は尋常ではない。 そしてそれは既に制服に染み込みはじめていた。 (明日、これ着て、学校行かなくちゃ、いけないのに・・・) そう、彼女は制服を汚してしまったからといってすぐにクリーニングに出したり出来る環境にない。 明日もこの精液の染み込んだ制服に身を包んで登校しなくてはならないのだ。 そう考えるとますます少女の官能の炎は燃え上がっていく。 (みんなに、気付かれちゃうかも、この匂い・・・!) 精液の匂いを撒き散らして晒し者にされる自分の姿を想像して、比呂美はゾクゾクと背筋を震わせた。 それは比呂美が優等生の仮面の下に隠し持っている破滅願望からくるカタルシス。 (そうなったら、眞一郎くん、どんな顔、するんだろう・・・?) 呆れるのか、軽蔑するのか、罪の意識を感じるのか・・・・・・はたまた悦ぶのか。 (見てみたい・・・かも!) 激しく動いていた比呂美の指がクリトリスを掠めた。 「あううっ!!」 今まで以上の快感に少女は戸惑った。 (何今の・・・) 恐る恐る指をちょこんと勃起した肉真珠にあてがう。 「ひゃああ!」 スポーツで引き締まった尻肉がきゅっとさらに引き締まる。 (なにこれ・・・こんなのが、私の身体にあったんだ) 自分の身体に新たに発見した極上の性感帯いじりに耽溺していく比呂美。 「あああ、んは、き、きもちいい・・・!!」 唇を噛み締めて声を抑えようとするが、それでも快感にあえぐ声は漏れ出し脱衣所に響き渡る。 はしたない女性器からこぼれだした淫液は下着では吸収しきれずに、比呂美の引き締まった太股に幾筋もの輝く道を描く。 「ふぅん、んちゅ、ちゅる・・・!」 左手についていた精液、それを唇を窄めて啜ってみる。 (に、苦い・・・?変な味、でも・・・うれしい・・・!!) 自分の体内に眞一郎の精液を取り込むという行為は彼との擬似的な性行為であり、比呂美の心をときめかせた。 「眞一郎くん、あああ、なんか、くる、あああああん!!」 なおも執拗なクリトリスいじりを続けていた比呂美の身体がガクガクと痙攣し始める。 背筋をピンと反らし、腰を激しく脈打たせ、下着をつけたまま尿道から大量の蜜を迸らせる。 暴力的なほど快感がクリトリスから背骨を昇りあがって比呂美の脳内で炸裂する。 (すごい・・・きもちいい・・・しらなかった・・・眞一郎くん・・・) 生まれて始めての絶頂はあまりに鮮烈で、それは優等生だった少女の脳髄に刻み込まれ、精神の一部をも塗り替えた。 (こんな気持ちいいことなら、眞一郎くんがしちゃうのも、無理ないわね・・・) 比呂美の下着の臭いを嗅ぎながら必死に性器をしごいていた眞一郎の姿を思い出す。 それは滑稽でありながらも愛らしい姿だった。 (このパンツあげたら、喜んでくれるのかな・・・?) 激しいオナニーの結果淫蜜でぐちょぐちょになった下着を指で弄びながらそんなことを考える。 それはそれで自分も嬉しいかもしれない。でも・・・ (でも・・・できることなら私と) そこで比呂美はようやく自分の気持ちに気が付いた。 (そっか・・・私・・・ナニがしたいんだ・・・眞一郎くんと) 比呂美の顔に笑みが浮かぶ。そして一筋の涙が頬を濡らした。 それは少女から女になろうという、晴れやかな涙だった。 一方、自室に逃げ帰った眞一郎は頭から布団をかぶり、泣いた。 泣いた。 ただただ泣いた。 自分など消えてしまえ、こんな愚かな自分など消えてしまえと、心の底から涙した。 それもまた少年の真実の涙であった。 あとがき まだアニメも始まったばかりですが、比呂美があまりにも可愛かったので短いですが書いてみました。 監督曰く「一つ屋根の下のお約束は守る」「涙がテーマ」らしいので今後こんな展開もあるんじゃないかなと思います。 比呂美が眞一郎の使用済みティシュを使っているところを本人に見られてしまう、という逆の展開もありだと思いますが。 それでは失礼いたします。
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▲ファーストキス-13 「これで、いける……」 眞一郎は、力なくそう呟いた。何かを確信した言葉だというのに、眞一郎の心身は、限 界点のちょうど真上という感じだった。ちょっとでも体の重心がずれようものなら、ずれ た方向に眞一郎の体は倒れていってしまうだろう。眞一郎は、ブルーシートが張り巡らさ れている金属製のパイプの柵に、手を伸ばし、それを伝に、ゆっくりしゃがみこんだ。そ して、近くに転がっていた酸素スプレー缶をつかむと、口元に持っていき、酸素を出して 大きく呼吸を整えた。朝から九時間、ぶっ通しの作業だった。休憩らしい休憩は、昼に、 比呂美の作ったお弁当を食べたときくらいだけだった。 眞一郎の予定していた作業は、一通り済んでいた。壁絵は、見事に奥行きが表現され、 絵の中の空間は、まさしく、三次元の空間と化していた。手前の草原に咲くかすみ草の花 のひとつひとつから、その奥の向き合ったふたりの人物、そして、波打ち際、地平線へま で、奥行き方向の軸でしっかりと貫かれていた。刷毛を数本口にくわえ、片手にはエアブ ラシ、もう一方には、拭き取りようの布を持つという、そんな格好で、絵と対峙しつづけ た。感じるままに、ひたすら、全身を動かしたのだ。だから、眞一郎には、どういう手順 でこの作業を行ったのか、もう思い出せない。 ……親父も、こんな苦しみを味わったのかな…… 眞一郎は、心の中でそうぽつりと呟いた。最初は、比呂美のために描くなどとカッコつ けたことを思っていたが、もう、そんな気持ちは、遥か彼方へ吹き飛んでいた。絵を描き つづけるための原動力が、『絵を描きたい、完成させたい』という自分の中で湧き起こる 純粋な気持ちに置き換わっていた。『愛する者のために絵を描く』という気持ちは、モチ ベーションを高めるのには有効なのかもしれないが、一歩間違えば、逆に『妥協』という 逃げ道になってしまうという危険をはらんでいた。眞一郎は、今日はじめて、そのことに 気づいたのだった。 ……愛する者が満足してくれれば、自分は満足なのだろうか。 自分が本当に描きたい絵は、そういう絵なのだろうか。 そういう絵で、果たして、愛する者を幸せにすることができるのだろうか。 自分の絵を見た者が、乃絵が、果たして、涙を流すだろうか。 父の絵は、そういう絵ではない。 自らの魂を削って、絵の具に刷り込んだような絵だった。 自分もそういう絵を描きたいんじゃないのか…… 眞一郎は、延々とそういうことを考えながら、ペンキを塗り続けたのだった……。 だいぶ意識のはっきりしてきた眞一郎は、携帯電話の時計を見た。 七時半を過ぎたころ――。 眞一郎は、空になった酸素スプレー缶を転がし、新しい酸素スプレー缶をつかむと這い つくばってブルーシートの外に出た。 商店街の通りは、夕飯の買い物や学校、会社帰りの人々で忙しなかった。おまけに雨が 降っていて、いつもより多いようだった。 眞一郎は、20リットルのペンキの缶に腰掛けて、再び酸素を吸った。幾分、手に力が 戻ってきていた。やがて、復活の合図のようにお腹がきゅるきゅると鳴りだした。比呂美 の作ってくれた燃料もとうとう切れてしまったのか、と眞一郎がお腹の友に声をかけてい ると、背後で自分を呼ぶ声がした。 「仲上君」 眞一郎は、おそるおそる振り返った。 乃絵が立っていた。 乃絵は、眞一郎の横にしゃがみこむと、眞一郎の頭に見つけているゴーグルとマスクを 優しく外した。眞一郎は、それを遠慮しようと思ったが、体がうまく動かせなかった。乃 絵は、呆然としている眞一郎の手を取り、はい、といって、酸素スプレー缶を口元に近づ けさせた。眞一郎は、再び大きく深呼吸を繰り返した。 眞一郎は、乃絵に、どうしてここに来たのかと訊こうとしたが、正直、もうどうでもよ かったので、訊かなかった。比呂美がここに来たとしても、もう差し支えなかった。自分 の心の底から強烈に突き上げてくる、絵を描きたいというエネルギーを感じることができ たのだから、他に励ましなどもう必要なかったのだ。眞一郎は、ひとりで絵に立ち向かう ということがようやくできていたのだ。 しばらく深呼吸していた眞一郎は、目を細め、もういいよ、と乃絵に合図を送った。 乃絵は、眞一郎から手を離し、眞一郎から話しだすのを待った。 「思ったより、大変なんだな……ま、初めて挑戦することだから、当たり前といえば当た り前なんだけど……」 「うまくいかないの?」 乃絵は、料理か何かのことのように軽口でいった。 「いや、そうじゃない。期間内に描きあげる目処はもうついてる。だけど……、心や体が、 どんどん削られていく感じがして、フラフラなんだ」 眞一郎は、燃え尽きたボクサーのようにへへっと笑った。 「ちゃんと、食べてる?」 「ああ、大丈夫、食欲はあるよ」 「そう、よかった」 乃絵の表情が、安堵と深い優しさに包まれた。 「ひとりで、踏ん張るのって、死にそうになるくらい、辛いんだな。おまえのいった意味 が、ようやく分かったよ」 ……だから、あなたにとって、湯浅比呂美という存在が、 ときには重荷になり、ときには逃げ道になる。 だから今、あなたは、ひとりで、このことを受け止めなくてはいけない…… 乃絵は、以前、眞一郎にこう忠告したのだった。 「ううん、わたしも、まだよく分かってない。今のあなたを見て、どうしたらいいのか分 からないもの」 乃絵は、首を大きく横に振った。 「比呂美が好きって、おれに言われた後は、こんな感じだったんだろ? だれにも助けを 求めることができずに、だれも助けることができない。ひとりで、ただ、踏ん張るしかな い。ゆっくりと、ゆっくりと浄化されていく辛さにひたすら堪えるしかない。自分にもど うすることもできない」 眞一郎は、両手で頭を抱え、声を詰まらせた。 「そんなこと、考えちゃダメ!」 うなだれる眞一郎に、乃絵は、眞一郎にまとわりつく邪気を振り払うように叫んだ。 「え……」 と眞一郎は、声を漏らして顔を上げると、乃絵は、眞一郎の背中に覆いかぶさるように抱 きついた。そして、乃絵は、低い声で、眞一郎の体の細胞ひとつひとつに語りかけるよう に、こういった。 ……あなたは、飛べるわ。飛べるの。 わたしのために、ちゃんと絵本を描きあげてくれた。 麦端踊りも、ちゃんと踊りきることができた。 湯浅比呂美にも、ちゃんと自分の気持ちを伝えることができた。 「乃絵……」 「今度も、ちゃんとできるの」 乃絵の声は、どんどん明るくなり、弾んできた。まるで、坂道を駆け下りるように。 「…………」 乃絵は、立ち上がり、両手を広げた。 「もっと、もっと、翼をひろげて」 乃絵は、天を見た。 「翼を……ひろげる?」 「そう。もっと、もっと、翼をひろげて。風は、ちゃんと吹いているわ。その風に乗るの。 そうすれば、もっと、もっと高く飛べるわ」 昔の乃絵らしい乃絵の言葉に、眞一郎は、懐かしさを覚えた。乃絵は、決して、がんば れ、とか、勇気を出して、という言葉は使わない。なにかを達成したときのイメージしか 語らない。眞一郎は、久しぶりに聞いた「飛べる」という言葉に、乃絵との通信を楽しん でみることにした。 「どうすればいいんだよ……」 「無理して、羽ばたく必要はないの。ただ、感謝すればいいの」 「感謝?」 乃絵の口から初めて聞く言葉のように思えた眞一郎は、思わず訊き返した。 「そう、ありがとうって」 「ありがとう……」と復唱する眞一郎。 「……そう。自分に感謝。眞一郎のお父さんとお母さんに感謝。湯浅比呂美に感謝。西村 先生にも感謝。愛子さんや、野伏くんにも感謝。みんなに感謝」 乃絵は、指をひとつひとつ折りながらそういった。 「おまえにも、感謝、だろ?」 眞一郎は、ひとり忘れているぜ、という感じに乃絵を指差して乃絵の言葉に付け加えた。 「……うん、ありがとう」 乃絵は、満面の笑みを作り、よくできました、と頷いた。 「不思議だな……おまえと話してると、なんだかホッとする。比呂美といるときには、あ まり感じないのに……」 と、眞一郎は、率直な感想を漏らしてしまった。乃絵がそうさせたのかもしれない。 「それは、あなたが、まだ、湯浅比呂美に対して心を閉ざしているからよ」 ……おれが、心を閉ざしているからだって? 「えっ! そんなことないよ」 と眞一郎は、全身で否定したが、乃絵はそれをたしなめるようにつづけた。 「ううん。認めたくないでしょうけど、そうなの。それに、湯浅比呂美は、気付いている わ、そのことに……」 「え……そんな……ばかな……」 おまえになんでそんなことがわかるんだよ、と眞一郎はいおうとしたが、乃絵はそれを 遮った。 「湯浅比呂美は、その寂しさを感じている。学校では凛々しくしているのに、あなたとい るときは、子供のように甘えてくるんじゃない?」 乃絵の言葉は、眞一郎と比呂美の関係を的確に捉えていた。 「おまえ……なんで……」 「当たりみたいね」 比呂美と乃絵が喧嘩したときに、乃絵はいろいろなことを感じたのだろうと、眞一郎は 思った。こうも自分たちの心を読まれたようなことを言われたら、もう開き直るしかなか った。 「これ以上どうすればいいだよ」 「あなた、湯浅比呂美を『女』として見ているでしょう?」 「当たり前だろ? 他にどう見ろっていうんだよ」 「ひとりの『人間』として見てあげて」 「え?」 ……ひとりの、人間? 比呂美を? それは、今まで眞一郎の頭の中に一度も浮かばなかったフレーズだった。 眞一郎は、急いで、今までの比呂美とのやり取りを思い返そうとしたが、疲れきってい てうまく頭が回らず、こめかみの辺りがずきんと痛んだ。 「そうすれば、もっと、もっと、彼女の見えなかった部分が見えてくるわ」 「ひとりの『人間』……」 「そう……わたしを見ているように……」 (なんだって!) 眞一郎の頭の中はパニックになった。乃絵の口から次々と飛び出てくる衝撃的な言葉に 目が回る感じだった。 つまり、こういうことなのだろうか――。 乃絵に対しては、『人格』を見ていて、比呂美に対しては、まだ『格好』しか見ていな いということなのか。確かに、眞一郎の心の奥でなにかが引っかかったが、今は、思った ことや感じたことの整理がうまく付かなかった。 「湯浅比呂美は、決して心の弱い人間ではないわ。むしろ、わたしより強いと思うの」 「乃絵……」 「あなたも、もっと強くならなきゃ、ね?」 乃絵は、考えるのに必死になっていた眞一郎の頭をぽんと叩いてそういった。 「……ああ」 そして、乃絵は、難しく考えなくていいのよ、というように目を少しおどけさせた。 「わたしと話しているようなことを、彼女にも話してあげるのよ。湯浅比呂美が、興味を 持つとか持たないとか、考えないで……。湯浅比呂美は、喜んで、嬉しくて、あなたに答 えてくれるわ」 乃絵のいっていることは、なんとなく眞一郎にも分かった。 「……そうしてみるよ」 「……うん」 「それじゃ、いっちょ、作業を再開しますか」 といって眞一郎は立ち上がったが、立眩みがして、乃絵の肩を思わずつかんでしまった。 「大丈夫?」 「ごめん。腹へって、死にそうなのを忘れてた」 「地べたでも食べることは忘れないわ。ひとりで立てる?」 「あのさ……乃絵……あっ、いするぎさん、だったな……」 ふふっと笑った乃絵に、眞一郎は、今話してくれたことへのお礼をしたいと思った。 ――そんなふたりから少し離れた人ごみの影に、ふたりを突き刺すような強烈な視線を向 けていた少女がいた。唇をかみ締め、肩を震わせた少女は、躊躇いなく踵を返すと、また 人ごみの中へ消えていった――。 眞一郎が家に帰り着いても、比呂美は部屋から出てこなかった。事前に食事はいらない と電話で伝えていたので、眞一郎は特に気に留めなかった。すぐ風呂に入り、そのあと、 部屋で眠たい目をこすりながら数学の宿題に取りかかった。そのとき、比呂美が部屋を訪 れてきた。 「眞一郎くん」 「おう」 眞一郎がそう返すと、比呂美は、静かに扉を開け部屋の中へ入ってきたが、しばらく扉 の前で黙って突っ立っていた。 「どうした?」 眞一郎は、机に向かったまま声をかけた。 「……うん……」 比呂美は、曖昧な返事をすると、ベッドに歩いていき、その上にうつ伏せになった。 比呂美が勝手に眞一郎のベッドに上がるようなことは今までなかったので、眞一郎は比 呂美の様子が少しおかしいと感じ、ようやく振り返った。 比呂美は、両手を重ねた上に顎を乗せて目をつぶっていた。 大人しくしてくれる分には何の問題もなかったので、眞一郎は、早く宿題を終わらよう と、また机に向った。 それから、比呂美は、ずっと黙っていた。 15分くらい経つと、眞一郎の耳に布団を叩くような音が飛び込んできた。最初は小さ な音だったので、比呂美がベッドの上で体勢を変えているのだろうと眞一郎は思ったが、 その音は段々に大きくなり、どんどんと一階へ響きそうなになった。比呂美は、膝を曲げ て足を振り上げ、それを下ろして敷布団を蹴っていたのだった。 「比呂美! 下に響くだろう?」 眞一郎が堪らずそれをとがめると、比呂美はすぐ、足をバタつかせていたのを止めたが、 その代わりに眞一郎を睨みつけてきた。 「なんだよ」 比呂美は、返事をしなかったが、また足を振り下ろして、一つどすんといわせた。 「やめろって」 比呂美は、ぷいっと壁の方に首をひねった。 眞一郎は、なんだよ、と大きくため息をつくと、再び机に向かった。 比呂美は、また、黙った。 それから10分くらいすると、眞一郎は、首をこくりこくりとやりだした。眞一郎の根 性よりも睡魔の方が勝るようになったのだ。それでも何度かは、はっと目を覚ましたが、 すぐに居眠りモードに突入してしまった。眞一郎の右手に持たれたシャーペンが、ノート に川の氾濫のような文字を書いたあと、眞一郎は幸せそうにぐーぐーと荒い寝息を立てだ した。 比呂美は、しばらくの間、そんな眞一郎のようすを呆れたように見つめていたが、眠り こける眞一郎にだんだん腹が立ってきた比呂美は、身を起こして、枕をつかみ、眞一郎の 背後にそっと近づいた。眞一郎は、まったく起きる気配がない。 比呂美は、眞一郎の背中を憎しみに満ちた目で見つめた。数時間前、この背中に乃絵の 体が合わさっていた。あれほど、ひとりで立ち向かいたいといっていた眞一郎が、いとも 簡単に壁絵の現場で乃絵と談笑をしているではないか。それを見た比呂美は、はらわたが 煮えくり返る思いになった。しかし、眞一郎が自分を現場に近づけなかったということは、 自分が眞一郎にとって特別な存在だという何よりもの証拠だった。 ……比呂美に逃げたくない…… その言葉が、せめてもの救いだった。 乃絵がちょくちょくと現場に顔を出していたのか、今日が初めてなのかは、分からない が、眞一郎の心に浮気な心があれば、間違いなく眞一郎の言動や態度に出ただろう。眞一 郎という人間はそれほど器用ではない。そういうことは、比呂美が一番よく知っているこ とだった。 眞一郎は、自分を裏切ってはいない。 比呂美は、そう確信していたので、今の自分の気持ちを眞一郎にぶつけていいものなの かどうか迷った。 比呂美は、また、眞一郎の背中をしっかりと見つめた。 ……石動乃絵が、包み込もうとするのなら、わたしは、どうするの? 湯浅比呂美は、どうしてあげるの? 比呂美の枕を持ったが腕が上がっていく。やがて頂点に達し、比呂美は、ぴたっと動き を止めた。 ……わたしは、石動乃絵ではない。 彼女のようなことができなくても、 わたしにも、わたしにしかできないことがあるはず。 今は、それがわからないだけ。 じゃ~あがくしかないじゃない。 眞一郎に、たとえ嫌われたとしても 本当の自分というものが少しでも分かるというのなら、 逃げてはダメなんだ。 そうでないと、一生、眞一郎に、自分を偽りつづけて、 本当の自分を見せないままで終わるかもしれない。 本当の湯浅比呂美を見てもらえないままに……。 それは、とても、悲しいこと…… 比呂美の眼光が、なにかを吹っ切ったように鋭くなる。そして、すぐさま、真っ直ぐに 上がった比呂美の両腕は振り下ろされ、比呂美の手に持たれた枕は眞一郎の後頭部を直撃 した。 その反動で、眞一郎の顔は机の上に突っ伏した。教科書やノートは机の上を滑り、シャ ーペンはどこかへ弾き飛ばされていった。 衝撃で目を覚ました眞一郎は、眠りこけて自分で机に顔を打ちつけたのだろうと思った が、後頭部に違和感が残っていたので、すぐ振り返り比呂美を見た。ベッドにいたはずの 比呂美が、枕を持って自分の真後ろに立っていたことで、比呂美が叩いて起こしたのだと 眞一郎はすぐ分かった。 「ご、ごめん、寝てたか?」 眞一郎は、へへっと照れ笑いをしたが、比呂美は、そんな眞一郎に、再び枕を打ちつけ た。かなりの力だったので眞一郎の上体はよろけ、眞一郎は慌てて両手を机について体を 支えた。そして、あきらかに敵意に満ちたような比呂美の行動に、眞一郎は緊張させられ た。 「なんだよ!」 比呂美は、もう一度、枕を眞一郎へ打ちつける。こんどは、それほど強くはなかった。 「比呂美!」 眞一郎は、椅子から立ち上がろうとしたが、またもや比呂美は、枕を打ちつける。眞一 郎は、それを左腕で防御しながら、比呂美に向こうとする。比呂美は、近づく眞一郎に半 歩後退して、また枕で眞一郎を叩く。 「おまえ、いい加減にしろよ!」 と眞一郎の怒号がとうとう飛ぶ。 それから、比呂美の枕攻撃は激しさを増した。力はたいして強いものではなかったが、 眞一郎の両手の防御の隙をつくように、頭、肩、腰、太もも、と枕で眞一郎を叩いた。 やがてだんだん息が上がっていく比呂美に対して、眞一郎は、両手の防御を止め、比呂 美に好きなだけ叩かせた。叩く力は、決して強いものではないが、眞一郎は叩かれるたび に少しよろけ、またすぐに体勢を立て直し、比呂美の攻撃を受け止めた。そんな状態がし ばらくつづき、眞一郎は、比呂美が攻撃を止めるのを静かに待った。 比呂美は、防御しなくなった眞一郎がつまらなくなり、自分の腕も疲れきってしまった ので、ようやく枕攻撃を止め、肩を大きく上下させ呼吸を整えた。 「気が済んだか?」 比呂美は、黙っている。 「おれ、もう寝るぞ」 比呂美は、眞一郎の言葉にまったく反応しない。 「あのさ、今取りかかっている絵のことなんだけど……」 と眞一郎が発すると、比呂美の体にまた力が宿り、枕を持った両腕を大きく振り上げた。 眞一郎は、その瞬間、比呂美の両手首を素早くつかみ攻撃させまいとした。 「いやッ! 離して」 眞一郎に万歳のポーズで固められた比呂美は、全身をくねらせバタバタと暴れだし、し まいには、眞一郎に蹴りを入れてきた。 眞一郎は、そのまま比呂美を吊り上げるようにして、ベッドに移動し、比呂美を手首を つかんだままベッドに横たわらせた。それでも、比呂美は、バタバタと眞一郎の拘束から 逃れようと暴れた。そして、そんな比呂美に、眞一郎は、こういい放った。 「甘えんぼ」 眞一郎のこの言葉に比呂美は、ぴたっと体の動きを止めた。 どこを見るわけでもなく、見開かれた比呂美の目。よく見ると、比呂美の瞳は細かく震 えていた。 比呂美の全身から力が抜けていくのを感じた眞一郎は、比呂美の両手首をつかんでいた 手の力を緩めたが、まだ比呂美の体に四つん這いで覆いかぶさった姿勢のままでいた。 学校を休むことを事前に話さなかったことに対して比呂美が怒っているのだと眞一郎は 考えたが、さきほどの比呂美の様子はとてもそんな風ではなかったので、思いっきり困っ た顔を比呂美に見せた。 「なにか、いえよ。いわないと離さないぞ」 この言葉に、比呂美は、体に力を入れ、くねりだした。 「おまえが悪いんだからな、叩いてくるから……」 眞一郎がそういいきる前に、比呂美はようやく口を開いた。 「あなたが悪いんじゃない! あな、た、が……」 比呂美の顔は、そういっている途中からくしゃくしゃになっていき、比呂美は大声で泣 きだした。口を大きく開け、まるで迷子の子供が母親を探すように……。 幼い子供は、自分の存在を相手に気づかせるために大声を張り上げる泣くという。 今の比呂美も、それと同じ感じだった。 眞一郎は、こんな比呂美の泣き方を見るのは初めてだった。子供の頃はあったかもしれ ないが、お互いに恋愛感情が生まれてからは、間違いなく初めてだった。 ぅうわああぁぁぁぁぁ――― ぅうわああぁぁぁぁぁ――― まるでサイレンのように繰り返される比呂美の泣き声。 眞一郎は、全身を凍りつかせ、自分の真下で声を張り上げる比呂美に、呆然となった。 それから間もなく、部屋の外で騒がしさが増すのを眞一郎は感じた。母の理恵子にもこ の声が届いたのだろう。 階段を上がってくる足音が、眞一郎の耳に飛び込んでくる。 (このままじゃ、まずい) 眞一郎はそう思うと、比呂美の手首を離して、右腕を寝ている比呂美の背中に潜り込ま せて比呂美を抱き寄せ、自分の体の上に比呂美が乗っかるように体を入れ替えた。比呂美 はそのとき一瞬だけ泣くのを止めたが、下敷きになった眞一郎の胸に顔をうずめると、先 ほどと同じようにまた泣きだした。 「眞一郎? 比呂美はいるの? 入るわよ」 と理恵子は早口でいうと眞一郎の部屋の扉を開けた。 ふたりの姿を見た途端、理恵子は絶句した。 ベッドの上で、眞一郎が下敷きになり比呂美を抱き寄せているのだ。 そんなふたりの体勢に理恵子は驚愕したが、すぐに、比呂美の泣き方に関心がいった。 「どうしたの比呂美は……」 理恵子の口調は、とがめるような強いものではなかった。 「母さん、大丈夫だから……今は、ふたりに……ふたりだけに、してほしい」 ふたりの服装を細かく見たところ、眞一郎が比呂美に無理やりなにかをしようとした風 でもなかった。 深い優しさに染まったような顔をしている眞一郎。理恵子はそんな眞一郎をしばらく見 つめていたが、やがて黙って部屋から出ていった。 眞一郎は、理恵子が自分を信頼して部屋から出ていったのではなく、比呂美を自分の力 でどうにかしなさいと課題を突きつけて出ていったのだと受け取った。 理恵子が階段を下りると、ヒロシが駆け寄ってきた。 「なにがあった」 「いえ、それが……」 理恵子は、ヒロシにありのままを伝えようかどうか迷ったが、眞一郎の気持ちも尊重し たい気持ちだった。息子のあれほど深い眼差しは見たことがなかったのだ。今は、比呂美 をしっかりと抱きとめている眞一郎を信じて任せ、どうにもならないようだったら親であ る自分らが介入しても遅くはないと思った。ただ、内心は、幼い子供のように泣く比呂美 のことが気になって仕方がなかった。 「ふつうじゃないぞ、あの泣き声は」 ヒロシは、理恵子の肩をつかんで詰め寄った。 「じゃ~、あなた、ご自分で見てきたらどうですか?」 そういった理恵子の鋭い視線にヒロシは、たじろいだ。 比呂美の泣き声は小さくなっていたが、まだつづいていた。 ヒロシは、立ちつくしたまま考えた。様子を見に行くべきか、いなか。眞一郎のことは ともかく、比呂美のことは、ずっと理恵子に任せっきりだったので、比呂美にかけるべき 言葉を、まったくといっていいほどヒロシは持ち合わせていなかった。それに、比呂美と 向き合っても、比呂美は自分に訳を話さないだろうと感じていた。比呂美は、自分のこと を絶対甘えてはいけない存在だと言い聞かせているようだったから……。 「眞一郎が、なにかしたわけではなそうだから、大丈夫じゃありませんか?」 ひとりで難しい顔をしていたヒロシを心配して、理恵子は、こんどは、優しい口調でそ ういった。 「子供たちを信じなさい、といったのは、あなたですよ……」 理恵子は、そう付け加えると、ヒロシの腕をつかみ居間へ引っ張っていった。 比呂美は、もう声を上げて泣いてはいなかったが、時折、鼻をすすっては体をひくつか せた。眞一郎は、ベッドの端の小棚に置いているティッシュペーパの箱をつかんで引き寄 せると、中身を二、三枚まとめて取り出し、比呂美に、ほら、といって渡した。比呂美は、 黙って涙を拭いて、洟をかんだあと、こんどは自分から中身をつまみ出し、顔をきれいに 拭いた。顔の取り繕いが一段落した比呂美は、眞一郎から身を起こして離れようとしたが、 眞一郎は、再び比呂美を抱き寄せてそれを許さなかった。比呂美は、大人しく眞一郎の胸 に顔をうずめた。 「きょう、何日だっけ」 「七月二日」 眞一郎の唐突な質問に囁くように比呂美は答えた。 「もう、七月か…………あっという間だったな…………」 眞一郎は、天井をおぼろげに見つめてそう呟いた。 「いきなり学校を休んで、おれがいなかったのでびっくりしたのか?」 比呂美は、小さく首を左右に振った。 「じゃ~あれか…………」 比呂美が、ここまで取り乱す原因は、もうこれしかなかった。 現場で乃絵といるところを比呂美が目撃したということしか。 眞一郎は、さらに力を込めて、比呂美を抱きしめると、比呂美は、うっ、と苦しそうに 息を漏らした。 「おまえには、いつでも見てもらえる。これからずっと、隣にいるんだし……」 眞一郎は、急に語気を強め、あの竹林での言葉を比呂美にいった。 比呂美の体は、その言葉に反応してびくっと震えた。 「おまえ、このあと、アパートに戻ってなんていった?」 比呂美は、黙っていた。 「プロポーズは、お互い大人になってからもう一度してっていったよな?」 「いったよ……」と比呂美は小さく、かすれた声で答えた。 「あれから、おれ、毎日考えるてるよ、そのこと。…………まだ学生なのにな……」 眞一郎は、そういうとへへっ自嘲気味に笑って、さらにつづけた。 「でもな、好きな女の子のことばかり考えていても、道が開けないこともある……。…… 勇気や愛っていう言葉は、聞こえはいいかもしれないが、それだけでは、比呂美を幸せに できない気がするって、きょう、感じたんだ。とにかく、『チカラ』がいるんだよ、『チカ ラ』が…………男は、それをつかむまでは、軽々しく、好きな人について来いなんていっ ちゃいけない…………」 比呂美は、顔を上げ、眞一郎の目を見た。 「石動乃絵が、そういったの?」 「石動乃絵は、関係ない。おれひとりで感じたことだ」 「きょう、あいつ、現場に現れたよ……」 「聞きたくない」 「聞かなきゃダメだ!」 眞一郎は、眼光を鋭くして言った。 「……あいつは、おれを背中から抱きしめて励ましてくれた。おれ、ぼろぼろだったから な。見るに見兼ねたんだろう……。前にも、そういう風にしてくれたことがあった。その ときは、なんて安心できるんだろう、なんて温かいんだろうって感じて、勇気が湧いてく る感じだったけど…………」 眞一郎の言葉は、そこで途切れた。 「けど?」 「…………きょうは…………きょう、抱きしめられたときは、ただただ、華奢なあいつの 体を感じるだけだった…………」 比呂美は、首を傾げて、どういうこと? と説明を求めた。 「以前感じたような温かさを感じなかったんだ……。……あいつは、勘が鋭く、言うこと も面白い。けど…………本質的に、おれは、あいつを求めなくなった、ということなんだ と思う。むかしは、確かにあいつを見ていると、創作意欲が駆り立てられた。でも、今は、 それほど感じない…………感じなくなった。…………こういう話、つまんないな」 「もっと、話して……」 比呂美はそう呟くと、また眞一郎の胸に顔をうずめた。 「最近、比呂美を見ていると、面白いんだ。こいつ、なんでこんなに面白いんだろうって。 こんなに近くにいるのにどうして気づかなかったんだろうって」 「なにそれ」 比呂美は、くすっと笑った。 「泣くし、切れるし、噛付くし、叩くし。かと思ったら、湯浅さんみたいに可愛くなった りするし……」 比呂美の顔は、みるみるうちにふくれてくる。 「あれが、ほんとうのわたしだもん!」 「はいはい、そういうことにしておきましょう」 「だ~め。その発言は取り消して」 「毎日、湯浅さんみたいに可愛くしてくれたらな~」 眞一郎は、天井に向かってわざとらしくぼやく。 「眞一郎くんしだいでしょ?」 と比呂美はいうと、眞一郎の頬の肉をつまんだ。 「ひはーい(痛ぁーい)」 眞一郎は、比呂美の背中をぽんぽん叩いてギブアップを伝えた。 「でも、あのデートのお陰で……………………」 眞一郎は、ひと呼吸置いて、さらにつづけた。 「いや、比呂美のお陰かな? 比呂美が一週間頑張ってくれたから、おれたち、大切なも のを取り戻した気がする」 「……うん……そうね……」 比呂美もそのことは実感していた。 「絵も、明日には、ほぼ完成する」 「ほんと?」 比呂美が眞一郎の顔を覗き込むと、眞一郎は、大きく頷いた。 「うん」 「……どんなのだろう……」 比呂美は、窓の方に顔を向けて呟いた。 夏の虫の音が聞こえていた。夕方に降っていた雨は、上がっているようだった。 「比呂美……」 「なに?」 比呂美は、再び眞一郎の顔を見る。 「土曜の深夜、正確にいうと日曜の早朝に、おまえに見せたいんだ」 「今度の日曜?」 「そう。一緒に、絵を、見に行こう……」 眞一郎は、低い声で、言葉を区切って丁寧に比呂美に伝えた。 「……わかった……湯浅さんにそう伝えておくね……」 「おまえ……相当気にしているな」 そのあと、比呂美は、眞一郎の鼻にかぶりついた。 ☆七月三日(木曜)雨、のち、くもり―― 翌朝、眞一郎は、居間へ入るなり正座をして、いきなり全員に向かって話しだした。 「父さん、母さん。取りかかっていた絵のことなんだけど、明日には完成します。それで、 土曜日は薬品を吹き付ける作業があるので、見せることはできないけど、日曜の早朝に、 父さんと母さんにも見てほしい、いや、見に来てください。比呂美には、午前三時に、見 せます。だから、三時半頃に駅前商店街の噴水広場のところに来てください」 「午前三時?」 と、まず比呂美が素っ頓狂な声を上げた。 「人波がない状態で、写真を撮りたいんだ。西村先生が、照明を持ち込んでくれるから大 丈夫」 明るさの問題じゃないよ、と比呂美は思うのだが。 「商店街って、ずっと工事していたところの?」と理恵子。 「うん。今、あそこに円形の広場ができていて、そこの壁に絵を描いていたんだ。全部で 8面あって、他は大学のサークルとかが描いている。一度も覗いたことはないけど」 「あなた、どうします?」 理恵子は、おそるおそるヒロシに尋ねた。 「決まってるじゃないか。何時だろうと、息子の晴れ舞台を見てやらないでどうするん だ」 ヒロシは、少し興奮気味に答えた。 「いままでみんなに心配かけて、すみませんでした」 と眞一郎は、深々と頭を下げた。 ヒロシは、そのあと、眞一郎になにも声をかけなかったが、ヒロシが嬉しそうな顔をし ていたことに、家族全員気づいていた。 ▼ファーストキス-14
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目次 【時事】ニュース湯浅 比呂美 RSS湯浅 比呂美 口コミ湯浅 比呂美 【参考】ブックマーク 関連項目 タグ 最終更新日時 【時事】 ニュース 湯浅 比呂美 「true tears」カフェがピーエーワークス本社隣で開催、“天空の実”添えた甘酒など - ナタリー 『true tears』 P.A.WORKSが贈る、切ない青春群像劇の原点(2008年のアニメ)【なつかしアニメレビュー】 - ファミ通.com 岡田麿里×P.A.WORKS最強タッグの原点的作品「true tears」がスペシャルプライスで登場! - 超! アニメディア RSS 湯浅 比呂美 「true tears」カフェがピーエーワークス本社隣で開催、“天空の実”添えた甘酒など - ナタリー 『true tears』 P.A.WORKSが贈る、切ない青春群像劇の原点(2008年のアニメ)【なつかしアニメレビュー】 - ファミ通.com 岡田麿里×P.A.WORKS最強タッグの原点的作品「true tears」がスペシャルプライスで登場! - 超! アニメディア 口コミ 湯浅 比呂美 #bf 【参考】 ブックマーク サイト名 関連度 備考 ピクシブ百科事典 ★★ 関連項目 項目名 関連度 備考 参考/true tears ★★★★ 登場作品 参考/名塚佳織 ★★★ キャスト タグ キャラクター 最終更新日時 2013-02-24 冒頭へ
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第4話 情事 「あら、ラブちゃんいらっしゃい。」 「こんにちはぁ。せつな、来てませんか?」 祈里のお母さんに挨拶して奥に通してもらう。 小さい頃から何度も通った部屋。もう、おばさんもいちいち案内したりしない。 声だけ掛けて、適当に上がり、帰っていく。半分自分の家みたいなものだった。 でも、こんなに緊張して部屋へ続く階段を登ったのは初めてだ。 何となく、足音を忍ばせるようにゆっくりゆっくり登る。 おばさんはせつなは来ていない、と言った。祈里は帰ってから勉強すると言って 部屋に籠っているそうだ。 集中したいから部屋には誰も来ないで、と言ってるらしい。 「ラブちゃんなら構わないでしょ。あまり根を詰めないように言ってやって。」 このところ、ずっとそうなの。笑って言うおばさんにあたしは複雑な気分になる。 せつなは部屋にいる。アカルンがあれば誰にも見られず出入り するなんて簡単。 たぶん、今までずっとそうして来たんだろう。 覚悟を決めて来たはずなのに、すくみそうになる。 祈里と、話をつける。もしせつながその場にいるなら、引き摺ってでも 連れて帰る。 考えて考えて、そう決心してきた。 (……怖いよ…。) 祈里の部屋が見える。ドアが、ほんの少し開いたままになってる。 それを見た途端、すぅっと体が冷える。その意味が分かってしまったから。 あたしも、いつもそうしてる。 せつなと愛し合う時、夜はしっかりドアを閉める。中の声が漏れないように。 でも、明るいうちは、わざと少し開けておく。閉め切ってしまうと 却って外の気配が分からないから。 少し開けておけば、外の音が聞こえる。階段を登って来る音が聞こえるから。 そっと、足音を忍ばせて近づかない限り。今のあたしみたいに。 「……ふふっ…、うふふ……せつなちゃん、とても上手。」 少し、湿り気を含んだ祈里の声。間違っても、勉強してて出る声じゃない。 「…んんっ……すごく、気持ちいい…」 (…イヤ、見たくない…) それなのに、目は意志に逆らいドアの隙間に吸い寄せられる。 祈里は制服のまま、勉強机の椅子に片膝を立て足を開いて座っている。 そして、その足の間に跪いて、頭を埋めているせつなが見える。 ピチャ、ピチャと微かに濡れた音が聞こえる。 せつなは背中しか見えない。でもシャツの前を全開にされているのが分かる。 舌が凍りつき、喉が乾上がる。棒立ちになったまま動けない。 「…ねぇ、いつも…ラブちゃんにも、してるの?だから、こんなに上手なの?」 祈里はせつなの髪に指を絡めながら、からかうように問う。 せつなは答えない。祈里は焦れたように、少し前屈みになり せつなの前に手を伸ばす。 ピクン、とせつなの背中が震える。胸を、触られたのだろう。 「クスクスクス……答えてよ、せつなちゃん?」 どうやって外に出たのか覚えてない。 ラブはふらふらと危なっかしい足取りであてどもなく歩く。 何を見ても逃げない。せつなを取り戻す。そう決心してきたはずだった。 でもそんなものは現実の光景の前には何の役にも立たず、 呆気なく砕け散ってしまった。心と共に。 (……なんか、もう…いいや……) 自分が怒ってるのか、哀しんでるのか、それともその両方なのか。 それすら、どうでもいい気がした。すべてが虚ろでふわふわと雲の上を 歩いてるみたいだ。 昨日までの焼けつき、身を捩るような焦燥感さえ、どこか遠くへ行ってしまった。 自分の体の現実感さえあやしい。 「ラブ?!」 聞き慣れた声。でも、誰だっけ……? 「ちょっと!どうしたのよ。大丈夫?」 「……美希たん………」 余程、酷い様子だったのだろう。美希は有無を言わさずあたしの手を引いて 自分の家に連れてきた。 ぼんやりと部屋で座っていると、美希が紅茶を持ってきてくれた。 (……甘い。) 濃くて、甘いミルクティ。ゆっくり口に含むと、空っぽになったと 思ってた心に、じんわりと温かさが広がってゆく。 「美味しい……。」 素直にそう口にする。 良かった。そう、美希が優しく微笑む。 そして、それと同時にさっきの光景がフラッシュバックする。 様々な感情が津波のように一気に押し寄せ気を失いそうになる。 美希は躊躇いがちに口を開く。 「…ねぇ、せつなと、何かあったの?それに、ブッキーとも。」 止めて、今その名前は聞きたくない。 そんな思いにも構わず、美希は言葉を続ける。 「こんなコト言いたくないけどさ、アナタ達この頃おかしいわよ。」 ヤメテ、お願い! 「やだ、ラブ!!ゴメン、どうしたの?」 膝を抱え、その間に頭を埋めてしまったあたしを見て、美希がオロオロと 背中を撫でる。 「ゴメンっ!ラブ。アタシ、無神経だったかも!……でも、心配してたのよ? アナタ達、何も相談してくれないしさ……」 背中から美希の温もりが伝わる。 膝の間から顔を上げると心から心配してくれてる美希の顔。 美希はいつも優しい。口ではつっけんどんな言い方をしても、 心底から人を突き放せない。 クールな見た目と裏腹に、実はすごく情に脆くて世話焼きなのを知ってる。 女らしくて素敵な美希。いつも爽やかないい匂い。 ……アロマの香りに頭がクラクラする。 「…美希たん、あたしのこと…好き?」 「もちろんよ!当たり前でしょ?だって親ゆ……んんっ!んぅ!」 だって、親友なんだから… そう続くはずだった美希の言葉はラブの唇に塞がれてしまった。 ラブは美希を抱きすくめ、唇を噛み付く勢いで貪る。 制服の裾から手を突っ込み、薄い乳房を揉みしだく。 唇も胸も匂いも…せつなとは、全然違う感触。同じ女の子なのに……。 (もう……どうでもいいや……) 美希……助けてよ………。 第5話 胸にある答えへ続く
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前:ある日の比呂美7 眞一郎は、下着代わりのTシャツとトランクスだけを身に着け、バスルームから出た。 さっきまで点いていた部屋の明かりは消されていたが、真っ暗で何も見えないというわけではない。 弱まった雪雲の隙間から差し込む月光が、室内を蒼く塗装し、神秘的な雰囲気を醸し出している。 テーブルの上には、二人で食べたシチューの皿がそのまま…… そして部屋の隅に、先ほど自分が脱ぎ捨てた服がきれいに畳んで置かれていた。 「眞一郎くん」 頭上、斜め上の辺りから自分を呼ぶ声。 期待や喜びとは違う『何か』を秘めた透明な声音が、「来て」と短く告げる。 眞一郎も同じ様に「うん」と短く答え、ロフトへと続く階段を登る。 浴室から漏れた湿気とエアコンの暖気で、下よりも少し暖かな彼女の寝所。 たどり着いたその世界で、比呂美は眞一郎を待っていた。 「…………」 「? なに?」 「……あ……いや……」 ブラとショーツ……その上にパジャマの上着だけを肩に羽織って正座している比呂美の姿…… それを目にして、眞一郎は頬が火照るのを自覚したが、前に進む覚悟が萎えることはなかった。 ……やはり恥ずかしいのだろう…… 目と目が合うと、比呂美も膝小僧の辺りに視線を落としてしまう。 だが、それもつかの間だった。 眞一郎が真正面に正座するのを感じると、澄み切った顔を上げて比呂美は言う。 「私たち、酷いことしようとしてるね」 「…………」 朋与は今、一人で傷の痛みに呻いている…… それなのに自分たちは…… 愛し合っているから……求め合っているから…… それだけでは決して許されない、拭い去れない罪悪感。 それを比呂美も感じているのだろうか? (……でも……それでも俺は……) 比呂美が欲しい。今、比呂美を抱きたい。今夜でなければ意味が無い。 許されなくてもいい。『最低』の烙印を押されても構わない。 弱い自分……情け無い『仲上眞一郎』を比呂美に見て欲しい。 そして……自分の隣を並んで歩いてくれる大切な存在を……比呂美をこの手に掴みたい………… 「比呂美…… 俺、こんな風にしか出来ない」 「……うん」 それでいい、と比呂美は言った。それがあなたらしい……私たちらしいと。 誰かを傷つけたことから逃げず、ちゃんと胸に刻みつけようとする眞一郎だから……私は愛しているのだと…… (……あぁ……) 誰に感謝すればいいのだろう。この人が……『湯浅比呂美』が自分の目の前に存在することを。 眞一郎はそう思わずにはいられなかった。 「……眞一郎くん……」 比呂美の両腕が、眞一郎を迎え入れる意志を示すように大きく広げられる。 肩に掛かっていただけの寝間着が背中の向こう側へと落ち、比呂美の滑らかな肌が露になった。 (…………きれいだ…………) 視界の左側から差し込む月の光線が、目前の少女の姿を蒼く染める幻想的な光景に、眞一郎は思わず息を呑んだ。 何度も……何度も求めた……心の底から欲する存在がそこにいる。 眞一郎は自分の二の腕を比呂美のそれに交差させるように身体を寄せ、その背中に手を回した。 比呂美の細い腕も眞一郎の後頭部を抱える形となり、熱を帯びた頬と頬が触れ合う。 Tシャツを脱いでおけば良かった、と眞一郎は悔やんだ。たった一枚の薄い綿の布がとても邪魔に感じる。 些細な障害を抜けて比呂美の体温を直接感じたいという欲求が、腕の筋肉に無用な力を込めさせた。 「……んぁ……」 胸を圧迫される形となった比呂美の口から、僅かに声と息が押し出される。 しまった、という軽い後悔を感じ、冷静さを取り戻す眞一郎。 だが、言葉で詫びるのは違うと直感し、腕の力を弱めてから、頬を摺り寄せて謝意を表す。 視界の外にある比呂美の口元が、ゆっくりと緩んでいくのが分かる。 絹糸のような栗色の髪をひと撫でしてから、眞一郎は少しだけ身体を離した。 自然とお互いの視線を求め合う二人。 「…………」 「…………」 もう名前を呼び合う必要すらなかった。 眞一郎と比呂美の唇は、磁石のNとSが引き合うように、自然と相手の側へと近づいていく。 チュッと軽く唇を重ねてすぐに離し、反射的に閉じていた目を薄く開く。 息が吹きかかるほどの距離にある眞一郎の顔…… それはほとんど間を置くことなく、また自分に向かってくる。 (……今度は……) 少し驚かせてやろう…… 内心でほくそ笑んだ比呂美は、前歯の間から舌を前に突き出した。 もう数え切れないほど重ねてきた二人の唇だが、『舌』を絡めたことは一度も無い。 カウントしたくない二日前のキスでさえ、お互いに前歯という壁を越える事は無かった。 このキスはいつもとは違うのだ、という大事な決意……その事を眞一郎にも分からせなければならない。 (今夜は私が教えてあげる…… 眞一郎くんに…教えてあげる……) まるで『姉』にでもなったような……そんな不思議な気分…… だが、その思惟は触れてきた眞一郎の唇の動きによって、あっさりと覆されてしまう。 「んっ!!」 背中に回っていた眞一郎の腕が、髪の艶を遡るようにして後頭部に達し、そのまま押さえ付ける。 中途半端に差し出されていた比呂美の舌……その横を抜き去るように、眞一郎は内部に侵入してきた。 カッと目を見開く比呂美に、眞一郎は気づかない。……いや、気にしていない……というのが正しいか。 (……しん…い……ちろ…………) 眞一郎の唾液の味を、比呂美は充分に知り尽くしている……つもりだった。 しかし、口腔の内部を掘削するように暴れ、蹂躙する舌が流し込む『それ』は、全く違うものに感じられる。 ……味覚だけではない。 まるで独自の意志を持っているかのように、変幻自在の動きを見せる眞一郎の舌。 自分以外の存在に『体内』を弄られる刺激が、これほどの官能を呼び起こすとは、比呂美は想像していなかった。 眞一郎の背中に食い込んでいた指から力が抜け、全身の筋肉も徐々に弛緩していく。 先制攻撃を仕掛けるつもりだった比呂美の舌は、もはや眞一郎の前に捧げられた生贄でしかなかった。 ………… 「……はぁ……」 比呂美を味わい尽くした眞一郎が、唇を離すと同時に吐息を漏らす。 「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」 苦しみとも快楽ともつかない状態から解放され、酸素を取り込もうと必死で荒い呼吸をする比呂美。 眞一郎は、悦楽の泉に比呂美が足を踏み入れ始めたことを確認すると、一旦、拘束を解いた。 脱力し、息を整えようとする比呂美を視界に入れつつ、邪魔だったTシャツを脱ぎ捨てる。 目の前に晒された眞一郎の肌を見て、比呂美の鼓動がまた一段早まった。 (……結構…逞しい……かも) 何も身に着けていない眞一郎の上体を目にするのは、小学校の水泳の時間以来だ。 体育の授業でしか身体を動かさないはずなのに、ちゃんと『男』を感じさせる部分に筋肉がついている。 見つめてもいいのだ、という思いと、恥ずかしい、と感じる思い…… 相反する思いのせめぎ合いは、再びの抱擁によって、別の思考へとスライドしていく。 薄い綿の障壁が無くなったことで、接する肌の面積が増え、与え合う熱量が増大する。 「……あぁ……」 強い圧迫を受けたわけでもないのに、思わず比呂美は甘い声を漏らした。 鎖骨とブラに囲まれた三角形の空間に、ピタリと合わされる眞一郎の硬い胸板。 そのきめの細かい表皮から伝わる摩擦が、堪らなく心地良い…… だが、呆けてばかりはいられなかった。 眞一郎の口元がまた接近し、比呂美の唇をついばみ始める。 軽く吸い込むようにして上唇だけをめくり上げ、その奥にある前歯の艶を舌先で楽しむ眞一郎。 自分の鼻腔から「……んん……」と漏れる吐息が、眞一郎の顔に反射されるのを感じながら、比呂美は思った。 (…………されっぱなしじゃ……いや…………) 教えるんだ、出来ることを…… してもらうだけでは……いけない。 もう一度、勇気を出して歯の間から舌を伸ばしてみる。 眞一郎は特に驚くことも無く、差し出されたそれを、自分の舌で時計回りにペロリと舐めた。 そして比呂美の口腔に舌を戻そうとするように、自分の舌を深く押し込む。 眞一郎が限界まで舌を伸ばした時を見計らって、比呂美が攻撃に転じた。 わざと侵入させた舌を陰茎に見立て、口内の圧力と唇の窄まりで、それをチュルンとしごき上げる。 「ッッ!!」 眞一郎は、脊髄に電流が通り抜けるような快感を味わった。 ブルッと小さく身震いする眞一郎の様子を、比呂美は微笑みながら見つめる。 「……比呂美……」 予想していなかった積極性が、比呂美の中に隠れていたことに気づかされ、目を丸くする眞一郎。 対等なのだ、という強い意志が、相対する比呂美の瞳から滲み出ていた。 ……主導権を握ることで、自分の中の欲望を制御する…… そんな眞一郎の目論見は、脆くも崩れ去ろうとしていた。 比呂美はまた、顔を交差させるように眞一郎に抱きつくと、「もっと…」と耳元に囁く。 その声音にふざけた様子は一切ない。 動揺しつつも、「答えなければ」という思いが、言葉を紡ぐより早く眞一郎の身体を動かす。 比呂美の腰の辺りに引っ掛かっている寝間着を横へと除けると、腕を大きく回して比呂美の身体全体を包み込む。 柔らかな拘束感に、比呂美の瞼が半分ほど落ち、トロンとした表情を作った。 軽めのキスを贈ってから、眞一郎は比呂美の上体をゆっくりと横たえていく。 ほとんど衝撃を受けずに、愛用の枕に沈み込む比呂美の頭部。 「……んぁ……」 痛みも何も感じないようにしたはずなのに、比呂美は官能的な吐息と共に、ピチャという粘着音を口から漏らした。 ……わざとか?とも思う。だが、そんな事は問題ではない。 問題なのは……比呂美の小さな仕草が、自分の興奮の炎に油を注いでしまうことだ。 舌下に溜まった唾をゴクリと飲み下しながら、眞一郎は「冷静になれ」と自分自身に言い聞かせる。 暴走するな……比呂美を気持ち良くすることに集中しろ…… そう内心で唱え、気持ちを落ち着かせる。 そんな眞一郎の心の乱れを知ってか知らずか、比呂美は声を出さずに、唇を「は・や・く」と緩やかに動かす。 まじめかと思えば、すぐに小悪魔に変身する眼下の少女…… (…………比呂美ッ……) 眞一郎の心にある『自制』という鎖の一本目が、ピンッと音を立てて弾けた。 上下に割れた口のあいだで蠢く桃色の物体に誘い込まれるように、眞一郎は己の舌先を落とし込んでいく。 チョン、チョンと先端で挨拶を交わしてから、二匹の軟体動物は渦を巻くように絡まり合った。 くぐもった声とクチャという粘着質な水音が、二人の接触面から断続的に生み出される。 程よく開いた唇を直角に交差させ、互いの粘膜の柔らかい触感を求め合う眞一郎と比呂美。 (……眞一郎…くん……) 唾液の分泌量が多いのか、舌と舌の物理的摩擦はほとんどゼロに近い。 なのに、接する部分から何故か高い熱が発生し、体温を押し上げていくのを、比呂美は敏感に感じた。 眉間から頭頂にかけて、痺れにも似た感覚が張り付くように生まれて、思考が段々とぼやけていく。 意識的に操っていた舌の動きが……徐々に鈍ってくる。 (だめ……眞一郎…くんと…………同じにするの……) せっかく逆転させた行為の主導権…… それを奪い返されまいと、比呂美は焦った。 先ほどと同じ手を使って、眞一郎を『しごき上げよう』と試みる。 だがそれは、タガが一段外れてしまった眞一郎の前では、無駄な抵抗でしかなかった。 ボクシングのカウンターパンチのように、比呂美の抵抗を逆手に取って、眞一郎は倍以上の快感を叩き返してくる。 窄めた唇の内周と歯茎をグルリと舐め回され、怯んでしまった比呂美の隙を突き、一気に舌を奥まで捻じ込む眞一郎。 「んッ!!」 新たな刺激に思わず上げた比呂美の声を、眞一郎は気にも留めない。 そのまま舌先を硬く尖らせて、比呂美の上顎の裏にあてがうと、微振動を送り込むように震わせる。 (ッッ!!!!) 脊髄を突き抜ける電流を、今度は比呂美が味わう番だった。 気持ちいい、という単語すら頭に浮かばず、思惟そのものが吹き飛ばされる感覚…… 自らの身体が自らの意志に反して反応する…… そんな体験に、比呂美は軽い恐怖を覚えた。 眞一郎の肩に置かれていた手に力がこもり、反射的に首をねじって唇の拘束を解く比呂美。 「ん、はあぁぁ……」 欠乏した酸素を取り込みながら、閉じていた瞼を開けて、同じく息を荒くしている眞一郎に視線を送る。 「……苦し…かったか?」 すまなそうな眼をして訊いてくる眞一郎に、ふるふると首を横に振り、嫌だった訳ではないと告げる。 「……眞一郎くん…………上手……なのね」 朋与に教わったの?という言葉が喉元まで出掛かるが、それは音にせず呑み込む。 「そんなわけないだろ。……夢中なだけだよ……お前に……」 治まりかけた動悸を、また激しくする眞一郎の一言…… 月光に染まった蒼の世界でも、お互いの頬が紅潮しているのがちゃんと分かる。 「比呂美……」と優しく名を呟いてから、眞一郎の手が比呂美の肌の上を滑り始める。 肩…… 二の腕…… 腹部…… 露出している部分を、もれなく撫で上げていく指先。 「……あぁ……」 五つの熱源が発する波動に反応し、下腹部に隠れる『女』が疼き始めるのを、比呂美は確かに感じていた。 つづく ある日の比呂美9
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前ある日の比呂美1 アパートまでの道のりを、比呂美はひたすら走り続けた。 眞一郎の視線を感じると何故かもつれる自分の脚が、雪で覆われた悪路を難なく駆け抜ける。 ……今、眞一郎は自分を見ていない…… 全く転ばない事がその証明のように感じられて、比呂美の心に追い討ちを掛ける。 たどり着いた自室の前で、半分泣きそうになりながらポケットを漁る比呂美。 鍵を取り出してドアを開ける事すら、もどかしい。 部屋の中へと逃げ込んでブーツを脱ぎ捨てると、水道からコップに水を注ぎ、一気に飲み干す。 「…………ハァ…ハァ…ハァ…ハァ……」 呼吸はなかなか整わず、精神と肉体の両方に、どんよりとした疲労感が広がっていく。 照明と暖房のスイッチはすぐそこにあるのに、手を伸ばす気にすらならない。 ………… ………… (……どうしよう……どうしたらいいの……) 突然、比呂美は人生の岐路に立たされてしまった。 眞一郎を許すのか、許さないのか。朋与との友人関係を続けるのか、続けないのか。 ふたりは比呂美にとって、今の生活の『核』と言っていい。 眞一郎との絶縁は、すなわち仲上家との繋がりを断ち切る事と同義である。 おじさんやおばさんが気を遣ってくれても、やはり自分の足は、あの場所から遠退くだろう。 同じ様に朋与を切り捨てるということは、学校生活での居場所を、ほとんど失う事に他ならない。 部にだって居ずらいし、あさみや真由、美紀子に対する人望も……きっと朋与の方が厚い。 ……そして……それよりも重要なのは…… (眞一郎くんと別れたら……私、生きていけない……) 眞一郎との未来を奪われる……それは比呂美にしてみれば「死ね」と言われるに等しい。 そう遠くない将来に眞一郎の妻となり、仲上の家に帰る…… それは比呂美にとって予定ではなく決定事項だった。 ………… (……だから……か……) 比呂美は、朋与の嘘を薄々見抜いていながら、わざと無視してきた自分自身に今更ながら気がついた。 こうなる事が分かっていたから、自分は知りたくなかったんだ。 眞一郎と一線を越えることを躊躇ったのも、『して』しまえば、きっと朋与との事を確信してしまうから…… ……だが……もう比呂美は知ってしまった。 (知らないふりをしていればよかった……気づかないふりをしていれば……) あの時、体育館で朋与を捜さなければ…… 『おばさん』の話を聞かなければ…… 眞一郎が帰ってくるまで待っていれば…… ふたりを見つけたとき、笑って「お帰り」と言っていれば…… きっと、今までと同じ日々が続いていったはずなのに…… ………… (……どうして……私……こうなの?……) 両脚から筋力が失せ、比呂美の身体は完全に床へとへたり込んでしまう。 冬の冷気で氷の様に凍結した床が、比呂美の内腿から熱を吸い取り、その心までも凍えさせる。 ……もう……消えてしまいたい…… そんな風に比呂美が思いはじめた時…… コン、コン ドアがノックされる。チャイムではなく、二度のノック……それは比呂美と眞一郎が二人で決めた、来訪の合図だった。 「比呂美……いるのか?……いるんだろ?」 「!!」 眞一郎が来た…… 眞一郎が自分を追ってきた…… 反射的に立ち上がり、レバーハンドルに手を掛けようとする比呂美。 ……だが…… (……何を話すの……何を……) 眞一郎の話……それは決して愉快な内容ではないだろう。言い訳……弁解……いや、それならまだいい。 比呂美の想像の針はマイナスの方向に大きく振れ、身体の動きを止めてしまった。 「ただいま」 玄関を開けた朋与が最初に目にしたのは、鬼の形相で仁王立ちしている母の姿だった。 当然である。何の連絡もせずに夜遅く帰宅した上に、朋与の格好は見るも無残なものだった。 制服とコートを泥で汚し、両手には薄汚れた紙袋と猫缶を入れたビニールを下げている。 そんな娘を見て、母の怒りが活火山の如く噴火するのに、さして時間は掛からなかった。 「な・に・を・し・て・い・た・のっ!!」 懇々と説教を垂れる母を適当な嘘でやり過ごし、 台所で愛猫ボーへ高級猫缶を振舞ってから、自分の部屋へ逃げ込む朋与。 テーブルに汚れた紙袋を置き、手早く服を着替える。制服は予備があるので、明日の心配はしていなかった。 軽い頬の痛みに気づき、鏡に顔を映してみる。 比呂美に平手打ちを喰らったところが、少し腫れていた。 「…………」 あんな事があったというのに、朋与の心は落ち着いている。 眞一郎が身体を抱きしめ、愚図りが納まるまで一緒にいてくれたお陰で、心身の回復は早かったのだ。 眞一郎の手が背中をさすってくれている間、朋与は泣きながら一年前の『喧嘩』のことを話した。 知るはずのない事を、比呂美が知っていた理由…… 比呂美の本心を暴き立てるため、眞一郎との情事を『嘘』と偽って告白したことを…… (……信じていないと思ったのに……) 話を聞いた瞬間の比呂美は、朋与を殺しかねない激昂ぶりであった。 しかし時間が経って冷静になると、それは『ありえない可能性』として彼女の中で切り捨てられたはず…… そう朋与は思っていた。 あの頃の朋与と眞一郎には、『比呂美を通しての知り合い』以上の関係はなかったのだから…… (私の失敗だ……) 正直に言って、比呂美がこれ程までに自分と眞一郎の接近に神経を尖らせているとは思っていなかった。 買い物くらい許される……そんな甘い考えが、このような事態を招いてしまったのだ。 朋与には、眞一郎と比呂美の仲を邪魔するつもりは毛頭ない。ふたりには幸せになって欲しいと本心から願っている。 (なのに……私は……) 胸の奥が、何かに締め付けられる。 それは眞一郎への消せない想いなのか、比呂美への懺悔の気持ちなのか、朋与には分からなかった。 ………… (大丈夫かな……眞一郎……) 眞一郎は朋与が泣き止んだ後、泥まみれになったプレゼントを自分に預けて、比呂美の部屋へ向かった。 話せば分かる……などとは朋与も眞一郎も思っていない。でも……やはり話さなければならない。 ………… 《送ってやれなくてゴメン》 それだけ言って、眞一郎は比呂美の去った方向へと駆け出していった。 ……その後ろ姿が……朋与の脳裏に強い印象として残っている…… ………… ………… 今、自分に出来る事をしよう…… そう無理矢理に気持ちを切り替える朋与。 目の前にある泥に汚れた紙袋から、中身を取り出す。 やはり袋と包装紙は、もう使い物になりそうもなかった。 包装紙を剥がし、内箱を確認する。 ビニールコートされた紙だったおかげで、汚れは内部にまでは及んでいなかった。 (うん、なんとかなりそう) ……眞一郎の大切なお金で買ったプレゼント……無駄にはさせない…… 必ず……必ず比呂美の元へ届ける…… 改めてそう思った朋与は、代わりの包装紙を探すために、部屋を出て階下へと降りていった。 「話すことない……帰って」 扉の向こうに立つ眞一郎が息を呑む気配。 追い返さなければ……そう比呂美は思った。 眞一郎がもし……もし自分の考えている最悪の言葉を口走ったら…… (いや……聞きたくない!!) キッチンシンクにもたれながら目を閉じ、「帰って」と念じる比呂美。 ……しかし…… 「話を聞いてくれるまで……帰らない」 眞一郎も引く気は無いらしい。春が近いとはいえ、屋外でじっとしていられる気温ではないのに…… 「す、好きにすれば!……部屋には入れないから!」 わざと大きな音をたてて鍵を掛けると、比呂美は部屋の奥へ引っ込み、照明とエアコンのスイッチを入れた。 マフラーと上着をハンガーに掛けてから座椅子へと腰を下ろし、眞一郎が去るのを黙って待つ。 ………… ………… 居る……眞一郎はまだそこに居る…… ドアを隔てていても、比呂美にはそれが分かった。 (……眞一郎くん……きっと寒い……) 冷気に晒されて凍える眞一郎の姿が、はっきりとした映像となって脳裏に浮かび、消えない。 「…………… !!」 我慢の限界はすぐにやってきた。居ても立ってもいられず、比呂美は玄関に駆け出してドアを開ける。 「! ……比呂美……」 吐き出した白い息を口元に纏わり付かせ、小刻みに身体を震わせながら立ち尽くす眞一郎…… そのコートの袖を掴み、無言で中に引き入れる。 比呂美は突き飛ばすように眞一郎を部屋の奥へと追いやると、 眞一郎の体を温める飲み物を用意する為にお湯を沸かしはじめた。 ………… 五分後、コートを脱いで自分の定位置に座っている眞一郎の前に、インスタントの紅茶が差し出される。 「……飲んで……」 聞き取れるギリギリの大きさの声で、そう呟く比呂美に促され、無言のままカップを口にする眞一郎。 二人は視線を絡めずに、相手の様子を探った。しかし、どちらも話を切り出すきっかけが掴めない。 気まずい沈黙が、二人の間に停滞した。 口を噤んでいても埒が明かない…… そう思った眞一郎が意を決し、重々しく喋り始める。 「言い訳……するつもりはないよ…」 普段より低く響く眞一郎の声に、比呂美の上半身がピクリと反応する。 (…………それって……どういう意味?) 眞一郎の言葉に裏は無い。そのままの意味……過去に朋与を抱いた……その事実を認めてるだけだ。 だが、朋与に『負けている』という思い込みに取り付かれた比呂美には、そうは聞こえない。 その思考は眞一郎の真意を飛び越え、論理が飛躍を始める。 話の中で眞一郎が『朋与』と親しげに名を呼び捨てている事も、比呂美のマイナス思考に拍車を掛けた。 (やっぱり朋与と続いてる……朋与に……眞一郎くんを…………盗られちゃう……) 眞一郎が『あの日』のことを懸命に話しているが、その内容は比呂美の心には全く届かない。 疑惑と憶測が脳内を飛び交い、眞一郎の発する単語の一つ一つの意味を曲解していく。 今、比呂美の頭を占めているのは「盗られる」という強迫観念のみだった。 「比呂美……俺、朋与と……」 朋与とはちゃんとしてる。ほんの一瞬だけど、ちゃんと恋愛して……そして、ちゃんと終わってる…… そう言いかけた時、比呂美が突然身を乗り出すと、両腕を眞一郎の肩に伸ばし、そのまま床へと押し倒した。 「っっ!……痛ッ!!」 予想もしていなかった比呂美の行動に眞一郎は対応できず、背中と後頭部をフローリングに打ち付けてしまう。 そのまま全体重を掛けて、両肩を押さえ付けてくる比呂美。 その光を失った瞳を見て眞一郎は、自分の気持ちが比呂美に全く伝わっていないことを悟った。 そして眞一郎の耳朶を、比呂美の震える声が鞭打つ。 「…………して…………私にも……」 「比呂…むぐっ!!!」 肉食獣が獲物に噛み付くようにして、眞一郎の唇を塞ぐ比呂美。 それは何度も交わした、恋心を伝える甘いキスではない。 清楚で控えめな普段の比呂美からは想像もできない……獣のような口づけ。 眞一郎の体は麻酔を打たれたように、完全に動きを封じられてしまった。 長い吸引の後に唇を外すと、比呂美は眞一郎の鎖骨のあたりに額を擦りつけながら、消えそうな声で何度も懇願する。 「……して…………私にも……して…………」 朋与に負けたくない…… 朋与に渡したくない…… そんな焦りが、比呂美を『らしくない』行動に奔らせているのが、眞一郎にはすぐに分かった。 こんな形で結ばれる訳にはいかない。比呂美をこんな気持ちで抱くことは許されない。 …………だが………… 胸元に掛かる吐息…… 頬に感じる栗色の髪の艶…… 腹筋のあたりに押し付けられる二つの膨らみ…… 接触してくる比呂美の存在そのものが、眞一郎の理性を破壊し、粉々に打ち砕いてしまう。 (比呂美が……比呂美が求めてる…………比呂美を…比呂美を……抱ける!!!) 『して』しまえばいい。身体を繋げてしまえば、誤解だってすぐに解ける。 身勝手な理屈を頭の中で構築した眞一郎は、身体を捻って体勢を入れ替え、圧し掛かっていた比呂美を逆に組み敷く。 艶やかな長髪が放射状に床に広がり、ほのかな香りを放って眞一郎の鼻腔をくすぐる。 比呂美は四肢を投げ出して全身の力を抜くと、桃色に染まった顔を背けて目を閉じた。 眞一郎の指が、比呂美の青いシャツのボタンに掛かり、それを上から一つ一つ外していく。 すぐに露になる比呂美の素肌…… そして眞一郎の眼前に、純白のブラに包まれた比呂美の乳房が現れる。 抱きしめた時に何度も味わった、あの柔らかさの源…… 比呂美の『女』を象徴する部分…… (……朋与より……大きい……) ふと頭に浮かんだ考えを、眞一郎は慌てて打ち消す。 ……何て事を考えるんだ……そんな……二人を侮辱するような事を………… 比呂美を抱けるのに…… ようやく……比呂美を………… 吸い寄せられるように比呂美の乳房へと伸ばされる眞一郎の指。 それは表面に触れると同時に、グッと強い力を込めて、比呂美の乳房の形を変えた。 「痛ッ!!」 突如加えられた痛撃に、比呂美の顔が苦悶に歪む。そして、それを見た眞一郎の顔は困惑で曇った。 (朋与は……朋与はこれで……悦んでくれたのに……) またしても脳裏に浮かんでは消える『朋与』の存在。眞一郎の体と心がジワジワと凝固していく。 「……眞一郎……くん?」 眞一郎の異常に気づき、掛けられる比呂美の声。それは確かに比呂美の物なのに、眞一郎の耳には別人の声として響いた。 《してあげる。仲上くんのして欲しい事、全部してあげる》 《好きよ……眞一郎……大好き……》 《うっ……はぁ、はぁ……き、気持ちいいっ……眞一郎ぉ……》 《出してっ眞一郎!……私の中に……精子……いっぱい出してぇぇっ!!》 消えない……朋与が自分の中から消えない…… 比呂美に近づけば近づくほど、朋与の思い出が湧き出してくる。 普段と違ったあの優しい声…… 甘い香り…… 張りのある柔らかな肌…… その全てが、比呂美の痴態を触媒にして、鮮明に眞一郎の脳裏に蘇ってくる。 (…………朋…与……) 自身の内側に『黒部朋与』が厳然と存在していることに、眞一郎は気づいてしまった。 そしてそれは、触れ合った肌を通じて比呂美にも伝わっていく…… 「……!!」 眞一郎が我に返った時には、もう遅かった。 比呂美は胸にあてられた眞一郎の手を払い除けると、覆い被さる身体から擦り抜けるように身を起こす。 シャツの前を両手で閉じ合わせ、曝け出した胸を隠してから、吐き出す様に比呂美は言った。 「…………帰って……」 今まで浴びた、どんな罵声よりも強烈で鋭いその一言が、眞一郎の心を刺し貫く。 背を向けて声を殺し、全身を震わせながら嗚咽をはじめる比呂美。 眞一郎は怯える小鳥のような比呂美の様子を正視する事が出来ず、コートを掴むと逃げるように部屋を飛び出していった。 箱の角に合わせて包装紙に折り目をつけ、慎重にテープで止めつつ、四方からくるむ。 「ん~ん、もう何でぇー?」 ネットで検索したやり方をそのまま真似ているのに、何度やってもシワが出来てしまう。 朋与は元々手先が不器用なので、『包装』などという細かい作業が大の苦手だった。 「え~い、もう止めた!」 バッシュのラッピングは、別の方法を考えよう。調べれば何か簡単で見栄えが良いやり方があるはずだ。 そう思い直した朋与は、包装紙をグシャグシャに丸めると、ゴミ箱に放り込んだ。 身体を投げ出すようにしてベッドへ寝転がると、枕元に置いてある携帯が目に留まる。 (……連絡は……してこないよね) 眞一郎は比呂美に会えただろうか?比呂美は話を聞いてくれただろうか? 気になって仕方が無い。……だがこちらから電話することは、やはり躊躇われる。 悶々とした気分で携帯を睨んでいると、突然ランプが点滅を始め、枕に振動が伝わってきた。 (!! 眞一郎!) 液晶画面に表示される相手の名前を確認すると、素早く通話ボタンを押し、一呼吸おいてから話しはじめる。 「…………もしもし……仲上くん?」 眞一郎……とは呼ばなかった。自分はまだ、彼ほどには気持ちを割り切れてはいないから…… 《…………朋与…………》 「うん…………比呂美と……ちゃんと話せた?」 すぐに返事が返ってこない。……眞一郎の様子がおかしい事に、朋与はすぐ気がついた。 上手く話せなかったのだろうか、と心配になる。 そんな朋与の心情をよそに、眞一郎は朋与の心の中を激しく掻き乱す、不用意な一言を突然口にした。 《……俺……やっぱりお前の事、忘れられない》 「…え……」 意味が分からない。なんで……なんで……そんな展開に……なんでそんな話が出てくるのか。 「な…なに言ってんの。そんな訳ないでしょ」 眞一郎が好きなのは比呂美。『仲上眞一郎』の一番は『湯浅比呂美』に決まっている。 内心の動揺を抑えながら、通話口に向けて何度もそう繰り返す朋与に、眞一郎は生気の抜けた声で切り返す。 《…………分かったんだよ……俺は……本当は比呂美より……》 眞一郎の口から漏れ出す甘美な言葉。心臓がバクバクと鼓動を早め、朋与の全身がカッと熱くなる。 (ダメだ!その先を聞いちゃいけない!!) 駆逐されかかった理性と比呂美への友情が警報を発し、朋与を激発させる。 「ふ、ふざけんなっ!!……私は……私はもうアンタの事なんか、何とも想ってないっ!!!」 そう眞一郎を怒鳴りつけると、通話ボタンを切って携帯を乱暴に投げ捨てる朋与。 激しい運動をしたわけでもないのに、呼吸が乱れ動悸が治まらない。 (…………眞一郎が比呂美より私を……そんなはず……そんなはずない……) あの後、きっと『何か』があったのだ。眞一郎を狂わせる『何か』が。 それで眞一郎は血迷っている。 そしてまた、あの時のように二人の気持ちがすれ違ってしまった。すれ違ってしまったんだ。 ………… ……でも……もしも…………眞一郎が言ったことが、彼の本心だとしたら…… ………… 失った恋を取り戻せるかもしれない……そんな淡い期待が朋与の心を捉え始める。 比呂美から……眞一郎を……奪い取れるかもしれない…… 眞一郎の全てを…… ………… (何を考えてるの…… そんなのダメに決まってる!!) 動き始めた状況から逃亡するように、ベッドの中へと潜り込む朋与。 だが、その体内では『希望』という一滴の栄養を与えられた朋与の想いが、激しく膨張を始めていた。 厳重に鍵を掛け、鎖でがんじがらめにしてきた『想い』が、その全てを引き千切って大きく膨らみ始める。 (……嫌っ!出てきちゃダメっ!!……出てこないでッッ!!!) 朋与は眞一郎への想いを封じ込めようと心の中で絶叫する。 だが、溢れ出る気持ちを制御する事など、出来るはずもない。 ……眞一郎なんか好きじゃない…… ……眞一郎なんか好きじゃない…… 朋与は呪文の様にその言葉を唱え続けて眠りが訪れるのを待ったが、 その夜、彼女の元に睡魔がやってくる事は、遂に無かった。 つづく ある日の比呂美3
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No. NAME Pos age Roll 1 山下志津香 GK 26 GK 2 並木智香 DF 20 SB,CB 3 春日楠 DF 18 CB,SW 4 潮崎久美子 DF 18 CB,SB 5 伊藤亜紀 DF 17 SB 6 御手洗清子 MF 20 CMF,DMF 7 豊田可莉奈 DF 19 SB,SMF,WF 8 一条瑛花 MF 17 OMF,CMF 9 嵐崎円 FW 19 CF 10 春日つかさ FW 19 CF,ST,WF 11 松岡千恵 FW 20 WF,ST 13 寿美幸 FW 22 WF,ST 14 葵若葉 DF 16 SB,DMF 15 姫倉千草 MF 16 DMF,CB 16 静森絵里菓 MF 15 CMF,SMF 17 七咲逢 MF 16 CMF,DMF 18 春日結乃 MF 15 CMF,DMF 19 三浦茜 DF 17 CB,SW 20 七河瑠依 MF 17 OMF,SMF 21 南景子 GK 23 GK 22 湯浅比呂美 MF 17 DMF,CB 23 大倉都子 MF 16 DMF,CMF 24 村雨純夏 FW 17 CF,ST 25 鮎沢美咲 FW 17 CF,ST 36 秋穂みのり MF 21 CMF,DMF,WB,SB 監督 牧口美奈
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このSSは、10話で眞一郎が比呂美に「俺、ちゃんとするから」と約束した後から、11話で眞一郎が比呂美の部屋を訪れる前の空白を補完する妄想SSです。 目の前に、固く凍った残雪に所々覆われたアスファルトの道と岸壁が続いており、その先に真っ青な海が開けている。 そして、遙か上空では真っ青な空と白い雲がぐるぐる回っていた。 湯浅比呂美は、気が付くと、仲上眞一郎の上に倒れかかったまま、自分たちがが今どういう状態にあるのか、全く把握できないでいた。 何か、自分が自分でない、体がふわふわ浮遊しているような感覚。 比呂美には、自分の魂だけが何か、まるでテレビか映画の画面の奥の、およそ非現実の世界にいるように感じられた。 そればかりか、運搬トラックの助手席を飛び出してから今までの、ごく短い時間のできごとが、まるで遠い昔のできごとのようでもあり、永遠に訪れない遠い未来のできごとであるようにも思われた。 「比呂美・・・」 すぐ側で発せられた眞一郎の声が、彼女を現実に引き戻した。 「あ・・・」 その瞬間、ようやく彼女は自分たちが今現在どういう状態に置かれているのかを認識した。 「ごっ・・・ごめんなさい!!!」 比呂美は耳まで朱に染めると、ばね仕掛けのおもちゃのように、ぴょこんと眞一郎の上から飛び退いた。 (眞一郎くんとぴったり躰を密着させちゃった・・・) 心臓がドキドキ音を立てて、身体から飛び出しそうになる。 その後に、眞一郎がごそごそと体を起こす。 「怪我、なかった?」 「私は大丈夫。真一郎くんこそ、体のほう大丈夫?」 二人はぎこちなく言葉を交わしたきり、どちらも彫像のように固まってしまっていた。 そして、時間にしてほんの数分の間であったが、無限の長さにも思える空白が過ぎた後、背後でクラクションが2回鳴る音が聞こえる。 「あ・・・」 漸く我に返った眞一郎が顔を上げ音の元の方を向きやったが、比呂美はずっと顔を赤らめて俯いたまま、身じろぎ一つする気配がない。 それどころか、微かに身震いしながら、必死にこらえている彼女の表情が、横から目に突き刺さる。 「ヤバい・・・」 一瞬眞一郎は狼狽した。 今の比呂美は到底トラックに戻せる雰囲気ではない。 かといって、ここは往来の真ん中だ。いつまでもこうしていられるものではない。 「一寸待ってて。トラックには先に行ってて貰うから。」 眞一郎が自転車を脇に寄せ、比呂美にそう声をかけると、彼女は一瞬体をビクリと震わさせた。 だがそのときには、眞一郎はもう50メートル先のトラックに向かって駆けだしていた。 「すんません、一寸アクシデントが発生しまして、僕たちは後から歩いていきますから、先に行って待っていて貰えないでしょうか?」 先程から只ならぬ空気を察していた運転手はニヤリと笑い、一言「がんばれよ」と声をかけ、エンジンを入れ直した。 軽い音をたててトラックが走り去った後、眞一郎はごく短い距離を駆け戻ってきただけだったが、その僅かな時間の間に、比呂美はその場にへたりこんでしまっていた。 「参ったなあ」 僅かでも動かせば今にも決壊しそうだ。 そんな比呂美を見下ろしながら、眞一郎は、今自分に何ができるかが咄嗟に思いつけず、暫く途方に暮れていた。 「そうだ」 眞一郎は、この先の脇道に、車は通れないが徒歩なら通り抜けられる近道があることを思い出した。 そしてあることを思いつくと、歯を食いしばって耐えている比呂美に、右手を差し出した。 「ホラ、向こうでトラックが待ってるから、歩いていこうよ。俺も一緒に行くから。」 比呂美は濡れた眼差しで眞一郎を見上げたが、今はダメと目で訴える。 「ホンの一寸だけ我慢して。すぐに我慢しなくて良い場所に連れて行くから。」 その言葉でようやく、比呂美は大きく息を吐くと、少し安心したように、差し出された右手を素直に握りしめた。 眞一郎は比呂美が右手を握り返したことを確認すると、そのまま路上にへたり込んでいる彼女を引き起こした。 眞一郎は比呂美が無事煮立ち上がったことを確認すると、掴んだ右手を離そうとしたが、その瞬間比呂美は左手をきゅっと握り返して、離そうとしない。 比呂美の気持ちを察した眞一郎が、そのまま右手を引いて比呂美に歩き始めるように促すと、彼女は素直に従った。 二人は片手を繋いで押し黙ったまま、海岸道に沿って、トラックが走り去った跡をとぼとぼと歩いていく。 「さっきはみっともない所を見せてごめん・・」 ようやく落ち着きかけていた比呂美は、俯いたまま微かに頬を赤らめて、消え入りそうな声で呟いた。 「そんなことないよ。俺が勝手に追いかけて、びっくりさせちゃっただけだから」 眞一郎は自分でも何訳分からないこと言ってんだ?オレ?と心の中で自嘲したが、それっきり再び二人とも押し黙ってしまう。 さっきは頭に血が上っていたから勢いで言葉が出てしまったが、いまは頭の中が真っ白になっていて、比呂美にかける言葉を全く思いつけない。 比呂美の引っ越し先のアパートは、この海岸通りを進んだ先の高台の上にあったが、このまま歩いて行くには少し距離がある。 「比呂美、近道するぞ」 眞一郎がそう提案すると、比呂美は黙ってこくんと頷いた。 「こっちだよ」 その瞬間、彼女がはっと息を止めたように感じられた。 二人は、海岸のアスファルト道から、高台へ抜ける藪の中の脇道に逸れてゆく。 竹藪の中は昼でも薄暗く、丁度藪のトンネルのように続いている。 その薄暗い藪のトンネルを奥深く進むにつれて、大分落ち着いていた筈の比呂美は、次第に再び身を震わせはじめた。 「比呂美・・・」 繋いだ右手を通して、微かな嗚咽の気配が、感じ取れた。 「ここ、どこだか覚えてるよね?」 「うん。勿論。」 僅かに、声の調子が上がった。 そこは、あの祭りの日に、比呂美が片方の下駄をなくした、竹藪を抜ける道。 「まさかお前が住むアパートがこの先にあるなんて、全然気が付かなかった」 「うん。トラックだと一瞬で横を通り抜けちゃうから、正直私も全然意識してなかった・・・でもここなんだね・・・」 そこで、一瞬歩みを停める。 「ありがとう」 震える比呂美の声は今にも消え入りそうだったが、確かに眞一郎の耳に届いた。 眞一郎は、彼女の方を振り向いた。 彼女の透明な視線は、すぐそこを見渡しているようでもあり、遙か遠くを見通しているようでもあった。 「私、さっきのこと、とても嬉しかった。 私、本当は、心のどこかで眞一郎くんに追いかけて来て欲しいと思ってた。 でも、そんなことは有るはずがないとも思ってた。まさか本当に眞一郎くんが追いかけてきてくれるなんて、思ってなかった。 ……だからさっきのことも、今でも本当のことだなんて信じられなくて・・・」 そこまで話すと、初めて眞一郎と視線を合わせた。 眞一郎と視線を合わせると、胸の奥がかあっと熱くなり、頭がなんだかぼうっとしてくる。 そして、熱病にうなされたような表情で、静かに告白を続ける。 「だって、眞一郎くんのことを考えると、胸の奥が熱くて、身体の底が乾いて、苦しくて、苦しくて、一晩中泣いて・・・ でも眞一郎くんのこと、正直あきらめかけてた。 もう、ダメだなって思ってた。 でも、奇跡ってあるんだなあって。神様ってひょっとしたら本当にいるんだって・・・」 言葉がとぎれる。真っ直ぐに彼の瞳を見つめようとするが、次第に輪郭がぼやけてくる。 その瞬間、今まで堪えていたものが、一気に決壊した。 「比呂美・・・」 一杯の雫で溢れる眼差しで見すくめられると、心の底が、キリキリと痛む。 (オレ、バカだ!大バカだ!) 眞一郎は、家を飛び出す前に思った台詞を、再び思い出していた。 今まで彼女がどれだけ自分のことを想い続けていたか。 彼女の想いに比べれば、自分の想いなんて軽すぎて、とても勝負になんか、なりはしない。 なのに、自分の軽率な行動でどれだけ彼女を苦しめてきたか。 叶うものなら、今すぐ比呂美を強く抱きしめてやりたい。 涙に濡れている頬と唇にキスをしてやりたい。 でも、今の自分にはその資格がない。 今、彼女を抱きしめれば、彼女の苦しみと悲しみを別の誰かに転嫁するだけだ。 今の自分に精一杯の出来ること、眞一郎は繋いだ手を強く握って、そっと内側に引き寄せた。 僅かだけ二人の距離が縮まる。先ほど約束したフレーズを繰り返す。 「俺、ちゃんとする。絶対ちゃんとするから、それまで待ってて。」 比呂美は一瞬息を吸い込んで、今の言葉を噛みしめる。そして微かに息を吐いて、返事する。 「うん・・・待ってる・・・」 比呂美は、身体を少しだけ彼の方に傾かせて、微かに頷いた。 ……それから大分時間が過ぎて、二人が竹藪のトンネルを抜けていくと、暗いトンネルの先が明るく開け、その先に比呂美が引っ越すアパートが見えてきた。 藪を抜けると太陽は既に高く、傍らに所在なさげなトラックが停まっている。 「大分待たせちゃったね。」 「運転手さん、迷惑してるだろうなあ」 「俺、荷物はこぶの手伝うよ」 「え・・でも・・」 「いいんだ。俺が比呂美のこと泣かせちゃったから、運転手さん待たせちゃった訳だし」 「そうだよ!眞一郎くんは何時も私のこと泣かせているんだから、反省しろ!」 比呂美は、そうやって赤く泣き腫らした目で、明るく微笑んだ。 (了)
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2009年2月12日(木) @投票所板 00 30 00~23 00 59 本戦 二回戦5組 出場6人 一人持ち票1票 2位まで三回戦進出 01組 02組 03組 04組 05組 06組 声優名 主な作品 備考 一回戦 成績(得票率) 予選 票数 平野綾 パキラ@まじぽか、長瀬湊@あかね色 11組02位 23票 (22.3%) 04組02位 32票 名塚佳織 光月未夢@だぁ!だぁ!だぁ!、湯浅比呂美@true tears 02組02位 17票 (19.1%) 09組03位 47票 折笠富美子 松岡美羽@苺ましまろ、姫子@ぱにぽに 11組01位 28票 (27.2%) 03組05位 27票 佐本二厘 秋姫すもも@ななついろ、渡良瀬準@はぴねす →結本ミチル 10組02位 27票 (29.0%) 06組09位 20票 小清水亜美 ナージャ@ナージャ 14組01位 16票 (22.2%) 04組01位 39票 釘宮理恵 アル@ハガレン、シャナ@シャナ 18組01位 27票 (35.5%) 02組01位 37票 .